151話 いつかふたりで、いつでもふたりで
「セミ?」
学校の宿題を一緒にしようと待ち合わせた市の図書館の入り口ホールで、私はマツリカの言葉を反芻した。『セミ』という単語は全く聞き慣れない。ひょっとしたら、マツリカの母語である日本語なのかも。マツリカは頷いて、黒くて綺麗な髪を耳の後ろに押し込めた。
「ええ、セミ。英語で何て言うのかわからないのだけど……」
言いながらスマートフォンを取り出して操作し始めた彼女は、そこに表示されたらしい単語を口にした。
「……ああ、cicadaっていうのね」
「ううん、そう言われても聞き覚えないわねえ。何の名前なの?」
英語に直されてもわからない、ということは、私が知らない物なのだと思う。マツリカが、スマートフォンの画面を見せてくれた。そこには、おそらくは虫と思われる生き物が写っている。周りの葉と比べるとわかる、トンボのものよりも大きな二つの複眼。そのすぐ後ろから突き出し、重なり合ったさらに大きな羽。何だかコミックに登場するヒーローか、宇宙から来た怪物みたい。
「これが、セミ?」
「ええ。見ての通り虫なのだけど。日本では夏になるとそこらじゅうでミンミン鳴いて、すごいのよ。夏の風物詩なの。でも、この国では全然鳴き声を聞かないし、姿も見ないなと思って」
先ほどマツリカが、図書館のすぐそばにある林に目を向けていたことを思い出す。あれは、セミの鳴き声が聞こえないかと耳を澄ませていたのだろう。
「そうね。確かにこの国では、あまり見かけないわね。前に住んでいた国でも、あんまり見た覚えがないわ。この画像で初めて見たもの」
「そう」
言葉少ななマツリカが、残念な気持ちでいることがわかった。日本でどのくらいその鳴き声が聞こえていたのかはわからないけれど、マツリカにとって、夏には欠かせない存在だったのだ。マツリカがこの国に来て数年は経つはずだけれど、それでもまだ慣れきれないのだ。
「それじゃあマツリカ、こうしましょ」
「え?」
私の唐突な言葉に、マツリカが顔を上げる。
「いつか、一緒に日本で夏を過ごしましょうよ。私に、セミの鳴き声を聞かせてちょうだい」
「ダイアナ……」
マツリカの、大きくて丸い目が、もっと大きくて丸くなる。その黒い鏡面に、得意げな私が映っている。
「だから、今年は私と、この国の夏を目一杯楽しみましょう! エルダーフラワーのシロップが夏の風物詩だって聞いたわ。今日は帰りにお店に寄って、探してみましょうよ」
マツリカの目が、柔らかく細くなった。
「それはいいわね。そうしましょう。そうね、……それは、とてもいいわね」
それから二人で、この夏に行きたい場所や日本での過ごし方について、館内の本を読みながら考えて過ごした。
帰って来てから気がついたのだけれど、二人とも、宿題のことをすっかり忘れていた。
学校の宿題を一緒にしようと待ち合わせた市の図書館の入り口ホールで、私はマツリカの言葉を反芻した。『セミ』という単語は全く聞き慣れない。ひょっとしたら、マツリカの母語である日本語なのかも。マツリカは頷いて、黒くて綺麗な髪を耳の後ろに押し込めた。
「ええ、セミ。英語で何て言うのかわからないのだけど……」
言いながらスマートフォンを取り出して操作し始めた彼女は、そこに表示されたらしい単語を口にした。
「……ああ、cicadaっていうのね」
「ううん、そう言われても聞き覚えないわねえ。何の名前なの?」
英語に直されてもわからない、ということは、私が知らない物なのだと思う。マツリカが、スマートフォンの画面を見せてくれた。そこには、おそらくは虫と思われる生き物が写っている。周りの葉と比べるとわかる、トンボのものよりも大きな二つの複眼。そのすぐ後ろから突き出し、重なり合ったさらに大きな羽。何だかコミックに登場するヒーローか、宇宙から来た怪物みたい。
「これが、セミ?」
「ええ。見ての通り虫なのだけど。日本では夏になるとそこらじゅうでミンミン鳴いて、すごいのよ。夏の風物詩なの。でも、この国では全然鳴き声を聞かないし、姿も見ないなと思って」
先ほどマツリカが、図書館のすぐそばにある林に目を向けていたことを思い出す。あれは、セミの鳴き声が聞こえないかと耳を澄ませていたのだろう。
「そうね。確かにこの国では、あまり見かけないわね。前に住んでいた国でも、あんまり見た覚えがないわ。この画像で初めて見たもの」
「そう」
言葉少ななマツリカが、残念な気持ちでいることがわかった。日本でどのくらいその鳴き声が聞こえていたのかはわからないけれど、マツリカにとって、夏には欠かせない存在だったのだ。マツリカがこの国に来て数年は経つはずだけれど、それでもまだ慣れきれないのだ。
「それじゃあマツリカ、こうしましょ」
「え?」
私の唐突な言葉に、マツリカが顔を上げる。
「いつか、一緒に日本で夏を過ごしましょうよ。私に、セミの鳴き声を聞かせてちょうだい」
「ダイアナ……」
マツリカの、大きくて丸い目が、もっと大きくて丸くなる。その黒い鏡面に、得意げな私が映っている。
「だから、今年は私と、この国の夏を目一杯楽しみましょう! エルダーフラワーのシロップが夏の風物詩だって聞いたわ。今日は帰りにお店に寄って、探してみましょうよ」
マツリカの目が、柔らかく細くなった。
「それはいいわね。そうしましょう。そうね、……それは、とてもいいわね」
それから二人で、この夏に行きたい場所や日本での過ごし方について、館内の本を読みながら考えて過ごした。
帰って来てから気がついたのだけれど、二人とも、宿題のことをすっかり忘れていた。