142話 ある魔物の失態

 今日は夏らしくて爽やかな日だった。授業が全て終わって、帰宅したらお兄様にシャーベットでも作ってもらおうかしら、なんて思いながら玄関ホールに向かったら、なんだか人だかりができて、みんながざわついている。
「なになに、どうかしたの」
 人混みの中に入っていくと、みんなが何を見ているのかわかった。ホールから出てすぐ、校舎の方に戻って中庭に続く道に、人間の靴跡ではない跡が、なんだかたくさんついているのだ。
「野生動物だったら危ないから、今、先輩方が先生を呼びに行ってるよ」
 クラスメイトがそう教えてくれた。騒いでいた生徒たちも少しずつ帰り始めたので、私はその足跡をよく見てみることにした。跡は犬や猫の足跡よりも大きくて、私の足のサイズくらいあるかもしれない。肉球はなくて、足の指が五本あるみたい。その指の跡から少し離れて点々とついている跡は、爪かもしれない。かなりしっかりと土に食い込んでいたと考えたら、獰猛な生き物の可能性もある。
 でも、もしかして。
 なんとなく、気になることがあった。これは魔力の気配だ。玄関のガラス戸の前をうろうろした挙句、中庭に向かったらしい何者かは、ひょっとすると魔物なのかもしれない。元々は普通の人間だった私だけど、お兄様の使い魔になった今なら、多少の魔力の気配くらいは読み取れるのだ。
「ダイアナ! 危ないよ」
「ありがとう。大丈夫、ちょっと見てくるだけ」
 心配してくれたクラスメイトに手を振って、私は中庭に向かう。いつもなら放課後でも何人かが憩う中庭に、今は誰もいない。小さめの公園くらいの敷地に、噴水や、それを取り巻くように据え付けられた可愛いベンチがあり、季節の花が咲く花壇を見て回れる小径の脇に、桜の木々が植えられている。その小径の中ほど、桜の木々の間から落ちる木漏れ日の中に、それはいた。
 一瞬、ゾウかサイかと思った。全身毛に覆われているところはそれらとは全く違うけれど、毛の色が灰色だったから。足跡から想像していた通り私の背丈ほどの大きさで、三人掛けのベンチと同じくらいの幅がある。それこそ、子どものゾウみたい。
 けれど、ゾウのような長い鼻はない。馬のように長い顔の横の方に、細い目がうとうとしている。
 こんな魔物は初めて見る。大きくて奇妙な見た目なのに、全然怖くはない。そして、初めて見るというのに、この魔力には覚えがあった。
「バク……!?」
 驚いて走り寄った私に気がついて、バクは目をぱっちりと開いた。
「……ダイアナ?」
「そうよ、私よ。それにしても驚いたわねえ。バクって、人間に変身していなかったら、こんな姿なのね」
 私がしげしげと眺めていると、ぼんやりしていたバクが、ようやくはっきりと目を開いた。
「しまった! 昼間から美味しそうな夢がたくさんあってつい食べすぎて、体に戻るのも忘れて寝てしまった」
 バクは人の夢を食べる。その間は肉体から魂を切り離して出歩くのだと聴いていた。100年以上は生きているというバクがそんなうっかりしたことをするなんて、珍しいこともあるのね。
「確かに、授業中に居眠りする子は多いものね」
「ダイアナの夢も食べたような気がする」
「まあとにかく、早く体に戻った方がいいわ。先生たちが来ちゃう」
「多分僕の姿が見えるということはないだろうけど、そうするよ。起こしてくれてありがとう、ダイアナ」
 バクは小さなあくびをして、すぐに消えてしまった。ほぼ同時に、先生たちがやって来た。

「バクが食べすぎてそこら辺で居眠り、ねえ」
 夕食の席で、何も食べないお兄様が言葉を咀嚼する。
「それは確かに珍しい」
「でしょう。それにしても不思議なのは、バクの魂が足跡を残していたことなのよ。体は見えない筈だって言ってたけど、跡は残るものなのかしら」
 私がふわふわのオムライスを口に運びながら言うと、お兄様が「残ることもある」と頷いた。
「現代の怪談なんかでも、霊が痕跡を残すことがあるだろ。姿形は人の目に見えずとも、それが在る以上、世界に何らかの影響を及ぼすものだ」
 確かに、ゴーストはよく生前の習慣などに合った痕跡を残したりすると聞く。魔物も同じなのかも。
「しかし、なるほどな」
 お兄様がくっくと笑う。
「何がおかしいの?」
「いや。あいつ、ダイアナに失態を晒したのが恥ずかしかったんだろうな。帰ってから一度も部屋から出てこないぞ」
「あらあら。あんなにもふもふで可愛い姿なのだから、恥ずかしがることないのに」
「ははは。だから、じゃないか」
 今度バクに会ったら、またあの姿になって欲しいわね。
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