132話 今だけはぼくのもの
キスをされたことがない。
ぼくの師匠 はとても端正な顔立ちで、身長も高く、すらっとしていて格好いい。彼はエクソシストとして、悪魔の誘惑に耐えられるようにと、ぼくに「おまじない」を施してくれる。ぼくの頭の先から足のつま先まで、彼は唇で、舌で、手指で触れ、それまで禁じられてきた、知らなかった恍惚を教えてくれた。
けれど、唇へのキスだけは、されたことがない。
晴れた午後、ぼくはいつものように担当区域の巡回を終え、勤め先の教会に戻ろうとしていた。ひとけの少ない路地裏を抜けようとしたとき、見覚えのあるシルエットが目の端に映った。足を止め、よく見ると、それは師匠と先輩だった。
黒一色のスーツでビシッと決めた師匠の隣に、存在感の薄い、白シャツと紺のパンツ姿の先輩。二人とも神父で仲がいいから、よく一緒にいるところを見かけるのだ。
「せんせ……」
声をかけようとした矢先、先輩が少し背伸びをして、師匠の胸に寄りかかるように動いた。それを抱き留めるように、師匠は彼との距離を縮め、……二人の唇が重なった。
映画で見るような、しつこいものではない。穏やかで優しい、家族同士がするような、親密さを感じるキスだった。
まだぼくに気づかない二人は、唇を離してからも見つめあっていた。慈愛に満ちた眼差しが交差して、そこに本当に愛情が通っていることが、ぼくにもわかるほどだった。
師匠のあんな目、初めて見た。
手が冷たい。体のうちから、どんどん寒くなっていくようだ。冬とはいえ、この国には珍しく暖かい陽光が差しているというのに、吹雪の中に立ち尽くしているみたいだ。……たった一人で。
ぼくは二人に気づかれる前にと、踵を返した。どこに向かう当てもなく、走り出していた。
初めから、愛情なんてなかった。そんなことはわかっている。師匠はいつだってあの行為を「おまじない」としか表現しなかったし、ぼくだって彼のことを「好き」だなんて思ったことはない。
そう、師匠を好きというわけではないんだ。なのに、どうして涙が出てくるのだろう。
「マイケル?」
呼びかけられて、びくりとした。何も考えず走り続けて、今は誰もいない公園の野外ステージまでたどり着き、観客席の隅の方で涙を拭っていたのだ。まさか追いかけられているとは思いもしなかった。
「……師匠」
見上げた師匠の顔は逆光でよく見えない。でも、声色から、心配してくれているのだとわかった。
「マイケル、どうしたんだ」
「……キスを」
言ってしまってからハッとした。そんなこと、口にするつもりじゃなかった。第一、自分が師匠のことをどう思っているのかも、どうしたいのかもわからないのに、……そんなことを言ってどうしようというのか。
けれど、言ってしまったことで、もうどうにでもなれという諦めに似た気持ちが湧いてくるのがわかった。それにきっと、……師匠は「よく」してくれる。
師匠は隣の席にするりと身を滑り込ませ、ぼくの顔を覗き込んだ。黒目の中に、赤い炎が見えたような気がする。
「して欲しいのか?」
無言で頷くと、師匠は唇を歪めるようにして笑い、目を細めた。そのまま、彼の唇が、ぼくの唇を捉えた。初めは優しく、だんだんと貪るように吸われながら、彼の舌が自分の口の中で動くのを感じた。初めてのキスはあっけないほど簡単で、何も感じなかった。それなのに鼓動は早まり、息が荒くなっていくのを止められない。
先輩とのキスは、特別なんですか。こんなふうにはしないんでしょう?
ぶつけたい言葉は喉の奥で渦を巻き、ぼくはそれを吐き出す代わりに「もっと」と催促した。師匠の唇は、ぼくのものだ。今だけは。
その行為に、何の意味もないのだとしても。
師匠の背に腕を回しながら、その舌先に噛みついてやりたいと、一瞬、思った。
ぼくの
けれど、唇へのキスだけは、されたことがない。
晴れた午後、ぼくはいつものように担当区域の巡回を終え、勤め先の教会に戻ろうとしていた。ひとけの少ない路地裏を抜けようとしたとき、見覚えのあるシルエットが目の端に映った。足を止め、よく見ると、それは師匠と先輩だった。
黒一色のスーツでビシッと決めた師匠の隣に、存在感の薄い、白シャツと紺のパンツ姿の先輩。二人とも神父で仲がいいから、よく一緒にいるところを見かけるのだ。
「せんせ……」
声をかけようとした矢先、先輩が少し背伸びをして、師匠の胸に寄りかかるように動いた。それを抱き留めるように、師匠は彼との距離を縮め、……二人の唇が重なった。
映画で見るような、しつこいものではない。穏やかで優しい、家族同士がするような、親密さを感じるキスだった。
まだぼくに気づかない二人は、唇を離してからも見つめあっていた。慈愛に満ちた眼差しが交差して、そこに本当に愛情が通っていることが、ぼくにもわかるほどだった。
師匠のあんな目、初めて見た。
手が冷たい。体のうちから、どんどん寒くなっていくようだ。冬とはいえ、この国には珍しく暖かい陽光が差しているというのに、吹雪の中に立ち尽くしているみたいだ。……たった一人で。
ぼくは二人に気づかれる前にと、踵を返した。どこに向かう当てもなく、走り出していた。
初めから、愛情なんてなかった。そんなことはわかっている。師匠はいつだってあの行為を「おまじない」としか表現しなかったし、ぼくだって彼のことを「好き」だなんて思ったことはない。
そう、師匠を好きというわけではないんだ。なのに、どうして涙が出てくるのだろう。
「マイケル?」
呼びかけられて、びくりとした。何も考えず走り続けて、今は誰もいない公園の野外ステージまでたどり着き、観客席の隅の方で涙を拭っていたのだ。まさか追いかけられているとは思いもしなかった。
「……師匠」
見上げた師匠の顔は逆光でよく見えない。でも、声色から、心配してくれているのだとわかった。
「マイケル、どうしたんだ」
「……キスを」
言ってしまってからハッとした。そんなこと、口にするつもりじゃなかった。第一、自分が師匠のことをどう思っているのかも、どうしたいのかもわからないのに、……そんなことを言ってどうしようというのか。
けれど、言ってしまったことで、もうどうにでもなれという諦めに似た気持ちが湧いてくるのがわかった。それにきっと、……師匠は「よく」してくれる。
師匠は隣の席にするりと身を滑り込ませ、ぼくの顔を覗き込んだ。黒目の中に、赤い炎が見えたような気がする。
「して欲しいのか?」
無言で頷くと、師匠は唇を歪めるようにして笑い、目を細めた。そのまま、彼の唇が、ぼくの唇を捉えた。初めは優しく、だんだんと貪るように吸われながら、彼の舌が自分の口の中で動くのを感じた。初めてのキスはあっけないほど簡単で、何も感じなかった。それなのに鼓動は早まり、息が荒くなっていくのを止められない。
先輩とのキスは、特別なんですか。こんなふうにはしないんでしょう?
ぶつけたい言葉は喉の奥で渦を巻き、ぼくはそれを吐き出す代わりに「もっと」と催促した。師匠の唇は、ぼくのものだ。今だけは。
その行為に、何の意味もないのだとしても。
師匠の背に腕を回しながら、その舌先に噛みついてやりたいと、一瞬、思った。