14話 Fly me to the moon.

 職場へ向かう人間の姿がちらほら見かけられる大通りを歩いて、あいつの家へ向かった。古びたアパートとアパートの間に、これまた大昔から存在しているような、細長く小さな、二階建ての一軒家だ。質素と言うべきか粗末と言うべきか分からないような外見だが、その実、中は近代的にリフォームされていて、俺が棲家とした高級マンションにも劣らず小綺麗だ。人間の形をとって、人間の中に溶け込んで仕事をする俺たちには、やはり人間にとって住みよい環境が心地良い。悪事を働く悪魔とは違い、善を推奨する天使たちが、住まいの見かけをカモフラージュするのは当然のことだろう。
 これまた古びた金属製のノッカーを使うと、中から忍びやかな物音がした。どうやら在宅らしい。暫く立って待っていると、やがて、軋んだ音を立てながら、扉が開いた。大きな、青い瞳が俺を見上げて、戸惑いを露わにした。
「どうして、お前が……」
「よう、天使サマ。失礼するよ」
 躊躇いがちに後ろへ退いた、その身体の横をすり抜けて中へ入る。相変わらず生活感のない部屋の中は、前に来たときよりも寒々しい。大きな窓の向こうに、どんよりと曇った空が見える。
「……帰ってくれ。今は、お前と話している場合ではないんだ」
「用事を片付けたら、さっさといなくなるさ」
「用事」
 警戒するように壁際に立ったままの天使は、ひどく憔悴した顔をしていた。いつも穏やかな筈の表情には暗い影がとりつき、艶やかな唇が、今は乾ききっている。生理的な反応でしか流れない天使の涙の痕を、俺は確かにそこに見た。
「天使サマ、羽根を見せてくれ」
 俺の言葉に、天使はびくりと肩を震わせた。壁に背中を着け、視線を落として首を振る。
「……いやだ」
 まるで子どものわがままだ。俺はその細い身体を引き寄せ、抱き締めた。
「だめだ……」
 言葉とは裏腹に、天使は俺の胸に顔をうずめた。柔らかな金髪が首筋に当たる。小鳥や小動物のような身体の熱が伝わってくるが、今はそれに気を取られていられない。シャツ越しに、その背筋を辿って指を滑らせる。俺に密着した身体が小さく反応するが、構わず、浮き出た肩甲骨を数度、撫でた。
「天使サマ」
 そっと囁く。聞き分けのない子どもに、人間の親が言い聞かせる様が目に浮かぶ。ときには辛抱強さが、何にも勝る鍵となるのだ。少しの間そうしていたが、やがて天使は諦めたようにふっと身体の力を抜いた。途端、まばゆい白さの羽根が、その背中に表れる。身の丈ほどの羽根は、ふわりと、俺の脚にも触れた。
 名残惜しさを断ち切って身体を離し、その羽根を子細に観察した。ぱっと見た感じではまったく、どこをとっても美しい純白でしかないが、……しかし、黒くなる兆候が、その感覚があった。邪悪を感じる悪魔としての本能が、それを告げている。身体の奥に鉛を詰め込まれたようだ。
「……俺のせいだ」
「いや、……私が、悪いんだ。私が一瞬でも、こうなっても良いと……思ってしまったから」
 思わず、その顔を見つめてしまった。一瞬、立てていた計画の全てを脇に退けて、このままこいつを攫ってしまおうかという馬鹿げた考えが浮かぶ。しかし、そんなことをしても何の意味もない。俺が欲しいのは、白いままのこいつなのだ。そして恐らく、こいつ自身も。
「でも、今は違うだろう。お前は天使のままでい続けたいはずだ」
 天使は青ざめた顔で、ゆっくり頷いた。そうだ、それで良い。それで、俺もやっと意思を固められる。
「天使サマ、安心しな。お前は堕天使になったりしない」
「……? でも、羽根は……」
 怪訝そうな顔になるのも、もっともだ。堕天を回避する方法なんて、普通はあり得ないのだから……その原因となる対象の協力なしには。
「天使サマ、何度も言っているが、俺はお前のことが、本当に好きなんだぜ」
「……だめだ、そんなことを言わないでくれ。私は……分からなくなる。どうしたら良いのか、何が正しいのか……」
「いや、良いんだ。大丈夫なんだよ、天使サマ。これが最後だ」
 俺はもう一度、目の前の温かい身体を、そっと腕の中に抱いた。
「最後……? 何を言って」
「ありがとう、天使サマ。一瞬でも、俺を照らしてくれて」
 困惑し、俺を見上げるその瞼に、出来る限りの優しさで、口づけを落とす。一瞬、何かを悟ったように身体を引き離そうとした気配があったが、すぐに収まった。安堵したように瞳を閉じ、深い眠りに落ちた身体を抱き留めて寝室へと運び、横たえてやる。もう二度と見られない、その姿を胸に刻む。
「俺は、これまでに人間が作ってきた全ての詩を知っているんだ、天使サマ。愛をうたった詩も、別れをうたった詩も……」
 綺麗な額にかかる明るい金髪を整えてやりながら、俺は決して届かない、言葉の形をとった未練を吐く。
「でも、それら全ての詩を合わせても、お前への感情を表すのには足りない。どんな表現をしてもこの……愛を、表すことが出来ない。俺は……」
 ああ、無意味だ。こんな言葉も、こんな気持ちも、全ては無意味だ。もう、この顔を見ている意味すらない。
 規則正しい息の音を聴いているのが苦しくなって、俺はとうとうその家を出た。暗く沈んだ不快な朝の空気が、肺を冷やしていく。次に行くべき場所は、もう決まっている。そこに決めるまで、色々な候補は浮かんだが、そのどれも、己の中にある未練がましさを露呈するものばかりでうんざりした。だから最終的に、自分のそういう気持ちと、それを断ち切りたい気持ちとの両方を満たすことの出来る場所へ、行くことにしたのだった。
 辿り着いた街はずれで足を止め、俺は明るい灰色で満たされつつある空を見上げる。
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