14話 Fly me to the moon.

 堕天は、すなわち悪魔になることを意味する。俺のご主人サマが、その第一人者だ。しかし、悪魔すべてが元々天使だった訳ではない。俺のように、ご主人サマに悪魔として作られた存在も多い。そういう生まれながらの悪魔には、天使という存在は遠い。
 もちろん「敵」として、その特性はよく知っている。善良で、知的で、素直で、神聖という、大まかな特徴はよく把握している。だが、それだけだ。標的となる人間を間に挟んでのやり取りは日常茶飯事だが、直接的に対峙することなど滅多にない。ましてや、ひとりの天使に固執する悪魔なんてものはいない。俺の他には。
 地球上に張り巡らせている情報網のひとつに、堕天に関する噂話が引っかかったのは、今朝のことだ。ご主人サマが新たな同胞を生産しなくなってからというもの、堕天は滅多にない、新しい仲間を獲得するチャンスとして好意的に捉えられている。もちろん天使を直接誘惑しようなどと考える与太者はほとんどいないが、少しでも機会があれば隙に付け込んでこちら側に引き込もうと考える悪魔は少なくない。だから、堕天に関する情報は、例え噂話と片づけられる程度のものであっても、収集するに足るのだ。
 と言っても、実を言うと俺は、そういう意味で堕天情報を収集している訳ではない。もっと別の必要性に迫られて、特別の神経を注いできていた。それは俺が固執している、たったひとりの天使のためだ。
 俺の心の、ほとんど全てを占めているあいつの、純白の羽根が汚れた。
 あいつが堕天する確率は非常に低いと、俺は思っていた。もしそうなることがあれば、それは十中八九、俺のせいだろうが……しかし、あいつの美しい魂が、そう簡単に黒に傾くとは思えなかった。高潔な魂の光は、俺を焼きこそすれ、俺によって動じることなど、きっとないだろう、と。それは寂しいことだが、それでも、少しでもその光に照らされることができるのならば、と、空しい駆け引きを続けてきたわけだ。もしも、あいつが人間の愛情を理解したならば、その人間の愛情をもって、つまり、人間ならばこう考えるだろうというフィルターを通して、俺のことを思ってくれるようになるのではないか……、という、淡い希望もあった。人間のことを知りたがる変わり者の天使だから、そういうこともあるのではないか、と思っていたのだ。
 だが、あいつは堕天したという。もちろん噂話という、確度の低い情報だからしっかり確認する必要があるが、そういう情報が、根も葉もないということはあり得ない。情報戦に長けた俺たち悪魔の情報網が、馬鹿げた空想を拾ってくることはない。情報の出どころは不明だが、大方、天使たちのおしゃべりを誰かが聞きつけたのだろう。
 幸い、まだこの情報は、悪魔たちの中でそれほど重要視されていない。目下、他のあらゆる悪事に関する計画が立て込んでいて、それどころではないのだ。確認をするなら、早いに越したことはない。……しかし……もし、噂話が本当だったとしたなら、俺は。
 もちろん、今まで、何も考えてこなかった訳ではない。あいつに認識されるために行動を起こそうと決心したときも、想定されるあらゆるパターンへの対応策を練ってから実行に移したのだし、それ以降、あいつと接触するときも、百貨店の前で偶然見かけたとき以外は全て、同様に計画を立ててきたのだ。だから万が一の可能性として、あいつが堕天した際の対応についても、ずいぶん前から考えてはいたのだ。……しかし、本当にそれを実行することになるかもしれないとなると、……覚悟していたとはいえ、身体が重い。
 おれは、あいつが堕天しないだろうと信じていたし、それと同じ程度に、堕天しないで欲しいと願っていた。おれは、あいつの白さに憧れたのだ。人間の醜さをすべて分かった上でなお、その可能性を信じて、寄り添おうとする、あいつの魂に。それまで見てきた天使たちは、天使という役割からくる大上段に構えた愛情で人間を見ていた。だが、あいつは違う……人間の目線を知り、その上で導きたいと、本気で思っていた。それが、ひと目見たときから感じられたのだ。
 純白の魂と翼を持ったあいつに、愛されたいと願ってしまった。
 それは、俺の罪だ。だから、もしあいつが本当に堕天するのだとしたら……、その罰を、俺が引き受けるときがきたということだ。
 薄明るくなってきた窓の外を見つめながら、俺はようやく、寝台から立ち上がった。
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