119話 真実は風のように

 少し一人きりになりたくて、久々に翼を使い人の気配のない海辺に降り立った。これから朝日が昇ろうという気配が、水平線の彼方に萌している。空も海も濃紺に沈む中央をこじ開けるかのように曙の色が差し、雲がラベンダー色に染まってゆく。もう、すぐに黄金の輝きが世界を照らすことだろう。
 こんな朝凪を眺めていると、ある老人のことを思い出す。もう数世紀も前になるだろう。俺があの天使に、その時点では正体のわからない感情を抱き始めた頃のことだ。
 俺はその日、老人の元へ、魂を受け取りに行った。もう、彼の魂がそれほど長く保たないであろうことは、その摩耗具合から推測できた。その日じゅうにかたがつかずとも、近日のうちに、その寿命はついえるだろう。
 老人は海辺で一人腰を下ろして、水平線を眺めていた。完全に白くなった髪と髭が豊かで、ふさふさの眉毛の下で、昔よりもだいぶん穏やかになった視線が、昇る朝日の光を見ていた。
「来たか」
 俺の方を見ずに、老人は確かな声で言った。俺も隣に腰掛けて、彼にならって水平線に目を向ける。
「ああ。もう十分生きただろう。あんたが死んだら、その魂を貰い受けるという契約だ」
「うん。大丈夫だ、逃げも隠れもしないさ。あんたには感謝さえしてるんだ」
 俺はその横顔を見つめた。そこには虚勢の影などはなかった。
「本当なら、悪事ばかり重ねた俺に、こんな穏やかな余生はありえなかったはずなんだ。しかしあんたと契約して、時間と金ができた。もういつ死んでもいいと思っていたのに、そんな気がなくなってしまった」
 そうなって初めて、変な気が起きてな、と老人は穏やかに続けた。
「売り飛ばそうと思って買ったガキだった。なのに、なんだか馬鹿らしくなっちまって、手元に置いておいた。あいつはスクスク育って、今じゃ立派に所帯まで持ってるんだ。……俺のことを父さんなんて呼ぶのさ」
 老人の目尻の皺がより一層深まる。
「歳をとってから、よく思うようになった。動機がどうあれ、意味を持つのは行為そのものなんじゃないのか、と。これから地獄に堕ちようという悪人の、言い逃れだと思われてもいい。ただ俺はこの人生で、一つだけでもいいことをできたんじゃないかって、そう思うんだよ」
 俺は海の向こうに目をやった。朝凪の時間が止んで、涼しい風が一陣、顔を撫でていくのを感じた。
「……自分にとってそれが真実なら、そうなんだろうさ。真実だと信じられることを、その一生のうちに見出す……それが生あるものの特権だ」
 老人の視線が俺に向けられた。今吹いた、風のような目だ。
「だから俺は、あんたに感謝しているのさ。あんたの動機がどうあれ、あんたは俺に善行のチャンスをくれたんだ。……ありがとう」
 俺が戸惑っている間に、老人の目から光が失われていった。その肉体は急速にエネルギーを失い、摩耗し切った魂がそこから抜け出てくるのを、俺は慌てて捕まえた。
「俺は……」
 何を言っても、老人への反論にはならない。もうこの魂は答えない。
 俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
 ……今でも時折、こうして海を見ていると、考える。意味を持つのは行為そのもの、という老人の言葉を。あの老人が、自分の一生の中で信じるに至った、一つの真実を。
「……まあ、いいさ」
 思い切り深呼吸して、磯の香りを肺に入れる。澄み渡った風が、朝を運んでくる。
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