14話 Fly me to the moon.

 人間たちで溢れ返った地上に降り立ち、雨に濡れながら、人間としての棲家に帰り着く。もつれる指で回した鍵を、室内に入ってすぐに落としてしまった。拾い上げようとした拍子に、髪の先から垂れた雫が、床に染みを作った。まるで涙のようだ、と思いながら、それをじっと見つめる。
 こういうとき、人間は泣くのだろう。感情の波を鎮めて、浄化するために。だが、天使はそんな涙は流さない。ひたすら、主に与えられた器としての身体を守るためだけに、天使の涙は作られる。……そのはずだ。
 しかし、それなら、あの男に初めて身体を触られたとき、溢れた涙は何だったのだろう。
「主よ、私はどうしてしまったのですか。どうすべきなのですか」
 思わず跪いて、天上に隠された主へ、言葉を紡いでいた。組み合わせた両手に額をつけ、胸の裡で渦巻くものを吐き出す。
「天使は主の使いです、道具です……だから、なのですか。道具が……感情を、心の動きを知ることは、罪なのですか」
 窓の外は相変わらずの土砂降りで、天の恵みの光の一条も差さない。主は、今までもそうであったように、完全なる沈黙を保っている。黙ったまま全てを行う全能の主に比して、私はあまりにも小さい。以前は誇らしささえ感じられたその小ささが、今はひたすらもどかしい。
 消えてしまいたくなかった。大天使の指のひと振りで、この身が聖水に焼かれることを考えると、恐ろしくてたまらない。消滅それ自体が、ではない。消滅したらもう二度と、あの男に会えないのだと考えると、いっそ狂ってしまいたくなるほどの焦燥感に駆られるのだ。
 しかし同時に、これまで仕えてきた主に、善なる道に背くということも、同じくらいに耐えがたかった。大天使の粛清を逃れ、堕天使として生き永らえるというのは、完全なる消滅に等しい苦しみを示唆していた。私は天使として生まれたのだ。たとえ、これから天使でなくなるとしても。
「主よ……私のこの苦しみも、大いなる計画の一部なのですか。私は……私は、どうしたら良いのですか」
 声が震える。部屋に沈黙が下りる。窓の外の雨は、いつ止むとも知れない。
2/10ページ
スキ