113話 小さな魔物
人間たちが汗を流すのを横目に仕事を終え自宅に戻ると、リビングでダイアナが両手をぱちぱちと鳴らしていた。鳴らしつつあちこち移動して、さっぱり意図はわからないが楽しげに見える。
「新しい踊りか?」
「あら、お兄様。お帰りなさい。踊りじゃないわ。蚊よ」
一瞬、何を言われているのかよくわからずぽかんとしてしまったが、俺はすぐに思い至った。人間は蚊に刺されるのを嫌がって、すぐに手で圧死させようとするのだ。俺は慌てて声を上げた。
「ストップだ、ダイアナ。そいつは魔性の眷属だぞ」
「え……?」
ダイアナは驚いて手を止めた。それを待っていたようにブーンという音が聞こえ、俺の目の前に一匹の蚊が現れた。
「どうもありがとうございます、蛇の目の旦那」
「いや、俺も会えて嬉しいよ。わざわざこんなところまで出向いてくれるとはな。……ダイアナ、蚊という生き物は、何よりも多くの人間を死に至らしめているんだ。感染症を媒介することによってな」
俺と蚊が会話し始めたのを怪訝そうに見ているダイアナに言うと、彼女はちょっと身を引いた。まあ仕方あるまい。使い魔となった今では刺されることもないだろうが、人間として生きていた頃に散々、嫌な目に遭わされてきたことだろうから。「宿題があったの忘れてたわ」とかなんとか言いながら、自分の部屋に引っ込んでしまった。
蚊は、どうやら自分を使役する主人の使いとして、近くを通りがかったところだったらしい。それこそ人間には「蚊の鳴くような」と形容されるほど小さな声で、俺の鼻先で色々な情報を伝えてくれた。
「有益な情報をありがとう。本当はお前の主人が占有すべきものも混じっていたように思うが」
「いえ、蛇の目の旦那にはあっしだけでなく、仲間もかなりお世話になっておりますから」
蚊や蠅のように小さく数が多く、長距離の移動もできる魔性のものは、大変頼りになる。隠密的な行動も得意だし、カバーできる範囲が広大なので情報戦にも役に立つ。庇護しようとしているのは、何も俺だけではない。
「蛇の目の旦那が今年、蚊取り線香製造工場のラインを魔法で老朽化させてくださったお陰で、あっしらはとっても助かったんでさ」
「別の仕事のついでだったんだよ。まあ、お前たちの役に立ったならよかった」
ひとしきり世間話をして帰ろうとする蚊を、俺は呼び止めた。
「今日の情報の礼がしたい」
指を差し出すと、蚊は慌てたように羽ばたいた。
「そ、そんな恐れ多い」
「いいから、ほら」
それでも少しの間ためらう様子を見せていたが、やがて指先に留まり、その細い口先で俺の血を吸った。みるみる赤黒く膨れてゆく体も重たげに、蚊は何度も礼を言い、「少し強くなった気がしますぜ」と言いながら、開いた窓から外へ出て行った。
「新しい踊りか?」
「あら、お兄様。お帰りなさい。踊りじゃないわ。蚊よ」
一瞬、何を言われているのかよくわからずぽかんとしてしまったが、俺はすぐに思い至った。人間は蚊に刺されるのを嫌がって、すぐに手で圧死させようとするのだ。俺は慌てて声を上げた。
「ストップだ、ダイアナ。そいつは魔性の眷属だぞ」
「え……?」
ダイアナは驚いて手を止めた。それを待っていたようにブーンという音が聞こえ、俺の目の前に一匹の蚊が現れた。
「どうもありがとうございます、蛇の目の旦那」
「いや、俺も会えて嬉しいよ。わざわざこんなところまで出向いてくれるとはな。……ダイアナ、蚊という生き物は、何よりも多くの人間を死に至らしめているんだ。感染症を媒介することによってな」
俺と蚊が会話し始めたのを怪訝そうに見ているダイアナに言うと、彼女はちょっと身を引いた。まあ仕方あるまい。使い魔となった今では刺されることもないだろうが、人間として生きていた頃に散々、嫌な目に遭わされてきたことだろうから。「宿題があったの忘れてたわ」とかなんとか言いながら、自分の部屋に引っ込んでしまった。
蚊は、どうやら自分を使役する主人の使いとして、近くを通りがかったところだったらしい。それこそ人間には「蚊の鳴くような」と形容されるほど小さな声で、俺の鼻先で色々な情報を伝えてくれた。
「有益な情報をありがとう。本当はお前の主人が占有すべきものも混じっていたように思うが」
「いえ、蛇の目の旦那にはあっしだけでなく、仲間もかなりお世話になっておりますから」
蚊や蠅のように小さく数が多く、長距離の移動もできる魔性のものは、大変頼りになる。隠密的な行動も得意だし、カバーできる範囲が広大なので情報戦にも役に立つ。庇護しようとしているのは、何も俺だけではない。
「蛇の目の旦那が今年、蚊取り線香製造工場のラインを魔法で老朽化させてくださったお陰で、あっしらはとっても助かったんでさ」
「別の仕事のついでだったんだよ。まあ、お前たちの役に立ったならよかった」
ひとしきり世間話をして帰ろうとする蚊を、俺は呼び止めた。
「今日の情報の礼がしたい」
指を差し出すと、蚊は慌てたように羽ばたいた。
「そ、そんな恐れ多い」
「いいから、ほら」
それでも少しの間ためらう様子を見せていたが、やがて指先に留まり、その細い口先で俺の血を吸った。みるみる赤黒く膨れてゆく体も重たげに、蚊は何度も礼を言い、「少し強くなった気がしますぜ」と言いながら、開いた窓から外へ出て行った。