110話 光は海底をも照らし

 かつては輸送や人の往来が活発だった港町の入江、その海に面した左の陸地の突端である岬に、この灯台は建っている。この灯台が建てられた曽祖父の代から、僕の家系はここの灯台守を任されてきた。しかし、今では船の往来は稀だ。ここ最近では全くない。僕はいつものように機器類の点検と海面の視認を行い、もうすることがなくなって、ぼうっと窓の外を眺めた。海は凪いでいる。
 海を眺めていると、心が落ち着く。はずなのに、耳の奥には悲鳴のような音がこびりついて離れない。多分、海鳥の声か何かだと思うのだけれど。ざわざわと、冷たい水が僕に沁みてくる。そんな錯覚さえする。まるで何トンもの重い水に圧し潰されでもしているかのように、呼吸が苦しくなる……。
 そんないつもの静寂を、軋みながら開いたドアの音が破った。振り返るとそこには、疲れ切った様子の男が一人立っていた。黒髪に黒目、黒いジャケットに黒いシャツ、パンツ、靴まで黒でビシッと揃えている。非常に高身長ですらっとしていて、これまで見たことがないほど整った顔をしていて、そしてまるで生気がない。男は僕を認めて、「あ?」と声を上げた。
「なんだ、あんたみたいなのがいたとは思わなかったな」
 随分な言い草だ、と思ったけれど、なるほどこんなに辺鄙な土地の灯台に灯台守がまだいるとは思わなかったということだろう、とすぐに思い直した。
「僕も、まさかお客様が来るとは思いませんでした。……道に迷われたんですか」
「いや。ちょっと面倒なことになって、追っ手から逃げてきたところさ。少しの間、ここを借りるぜ」
 有無を言わさぬ口調で男は言い、僕が事務仕事で使う椅子にどかりと座ってしまった。
「面倒なことというのが何なのか気になりますが、よろしいですよ。僕も一人で退屈でしたから」
 男は僕をじっと見つめていたが、突然つまらなそうに天井を仰いだ。
「あんたと喋るなんて無駄なことはしたくないな」
「そうおっしゃらずに。灯台守はいろんな海の話を知っているんですよ」
「灯台守、ね」
 男は自分の膝に肘をつき、頬杖をついた。切長の目が、まるで僕の体内を見透かそうとするかのようだ。
「あんた、ここで何やってるんだ?」
「だから、灯台守ですよ。仕事なんです」
「俺が何者かわかるか?」
「さあ」
 男は表情を変えないまま「悪魔さ」と答えた。肌がゾッと粟立ち、男の言葉が真実だと直感する。
「……僕の魂を奪うつもりですか」
 途端、男は声をあげて笑った。つい今までの緊張感が嘘のように、幕が引くように消え失せる。
「ははっ。どうやったらあんたみたいに清らかな魂を地獄まで運べる? すでに何人もの人間に天上での幸せを祈られている、そんな魂を?」
 先ほどの恐怖とは違う、困惑が僕を襲った。この男は何を言っているのだ。すでに天上での幸せを祈られている?
 男は少しだけ表情を和らげて、僕を見る。
「あんた、何年生まれの何歳だ」
「一九二〇年生まれの、三十五歳……」
「今は何年だ」
「一九五五年」
「じゃあない。もうその年は七十年ほど昔に過ぎ去っている」
 男が指を鳴らし、どこからともなく、ひと束の新聞紙を取り出した。促されて目にした記事には、僕の名前と海難事故のあらましが、大きな文字で躍っていた。
「灯台守が嵐の中、海に落ちた輸送船の乗客を命と引き換えに救出……」
「周りを見てみろ」
 言われて見回すと、そこは僕の知っている灯台ではなかった。頑丈に造られた建物のため崩れてはいないものの、あちこち錆び、朽ち、すでに使われなくなって久しいことがわかる。男が座る椅子だけは、なぜだか綺麗なままだけれど。
 そうだ。僕はあの夜、船から転落した人を助けるために、荒波の中に飛び込んだのだ。飲み込んだ海水の冷たさ、船の上から聞こえた悲鳴が明確に耳に蘇った。
「思い出したか」
 男の問いに、ぼんやりと頷く。すっかり忘れていた。体は波にさらわれ、海の底に沈み……それでも魂だけは、この灯台に導かれて戻ってきたのだ。
「あんたの善行を記念した石碑が、すぐそこに建っている。この七十年ほどの間、その日には必ず式典が執り行われてきた。その度に、あんたは多くの人間から祈りを捧げられてきた……あとあんたに必要だったのは、思い出すことだけだった」
 体が、いや魂が軽くなった。暗い海の底に、暖かな光が差した。天使たちの優しい腕が、僕を持ち上げてくれているのを感じる。
 男は眩しそうに顔を顰めて、天上に昇る僕を見上げた。
「あなたは悪魔なのに、なぜ」
「言っただろ。地獄に連れて行くこともできない魂とのお喋りなんて無駄なこと、したくなかっただけさ」
 どんどん小さくなっていく男がのんびりと椅子に座り直すのを、僕は見えなくなるまで見下ろしていた。
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