109話 奇跡は花の香り
神様仏様、なんでもいい、私の愛する息子を助けてください。
この国に越してきて、夫はすぐに別の地方へ単身赴任してしまった。頼れる親戚も友人もおらず、息子が原因不明の病に倒れて、はや一週間が経つ。まだ言葉も喋れない小さな息子は、ベビーベッドの上で苦しそうに息をしている。喉が痛いのか、うまく泣くことすらできない。お医者様から頂いた薬はどれも全く効かず、日本にいた頃から食べさせていた離乳食も受け付けずに吐いてしまう。入院できる病院もなかなか見つからず、どこの病院に行っても「これは入院してもどうしようもない」なんて言われる始末だ。
「誰か助けて……」
途方に暮れてベビーベッドに縋り付いていたら、いつの間にか日本にいた頃住んでいた団地にいた。夫も息子もいない、空っぽで寂しい部屋に、私は一人で、やはり泣いていた。暗い部屋でいつまでもそうして泣いていたら、ふと誰かの気配がした。振り返るとそこには、小学生くらいの男の子が立っていた。黒髪の男の子は、「おやおや」と大人びた声を上げた。
「たいそう悲しくて暗い、美味しそうな夢だと思ったら……。あんた、日本の人かい」
「そ、そうだけど」
男の子は私が返事する間に、部屋のカレンダーをむしり取って口に放り込んでしまった。
「寂しさと絶望の味だね、ご馳走様」
ひとしきりむしゃむしゃと咀嚼し終えて、男の子は大きな黒目で私を見た。
「美味しい夢を食べさせてくれたし、同郷のよしみだ。どうやら今晩は天使の兄ちゃんも夢の中みたいだし、繋いでやるよ」
「え……?」
ぽかんとする私に構わず、男の子は部屋の壁をさくさくと掘り進んで、穴を開けてしまった。外には靄がかかっていてよく見えない。男の子が何やら手を動かすと、そこに道ができた。
「さ、ここを辿っていくといい。お願い事は自分で言うんだよ」
「は、はい……?」
訳が分からないままに、私はその道を進んだ。さっきの男の子はもういないけれど、彼の言葉によればどうやらこれは夢らしいから、ちょっと不思議なことが起きたっておかしくはないだろう。多分。
暗がりの中、かろうじて見える足場を踏み外さないよう慎重に歩いていくと、やがて何かが見えてきた。空高くから差し込む月の光に照らされて、その姿がはっきりと目に映った。
「……天使」
宗教に興味のない私には馴染みの薄い存在なのに、なぜだろう、白い光に浮かび上がったその姿は、とても神々しく思えた。繊細でふわふわとした金髪を顔の周りに揺らし、白い衣服を身に纏った天使は、背中から生えた翼をちょっと揺らしてこちらを向いた。どうやら今まで祈っていたらしく、ほっそりとした指が体の前で組まれていた。
「おや。お客様とは珍しいですね。獏君の計らいかな」
「ばく……?」
よく分からない言葉を繰り返してからハッとした。私には『お願い事』があったのだ。
「あ、あの! これが夢の中で、あなたが私の夢に出てきているだけの存在かもしれないのは重々承知なんですけれど……」
天使は、ふわりと微笑んだ。
「何か、どうしても奇跡に頼りたいことがあるのですね。聞きましょう」
言わずとも通じた。私は息せき切って、願いを口にした。天使は頷き、私の体をそっと抱き寄せて、背中を優しくさすってくれた。とても芳しい花の香りに包まれて、私は久しぶりに幸せな気持ちで目を閉じた。
そうして目を開けると、そこは元通り、息子のベビーベッドの前だった。やっぱり今までのはただの夢だったのだろう。それにしてもリアルで、ほっとできる夢だった……。
思い出しながらベッドの上を見て、私は文字通り飛び上がった。すっかり元気になった様子の息子が、空腹を訴えて元気に泣いている。
「治った……! 治ったんだわ!」
すっきりした様子の息子を抱きしめると、あの花の香りがした気がした。
この国に越してきて、夫はすぐに別の地方へ単身赴任してしまった。頼れる親戚も友人もおらず、息子が原因不明の病に倒れて、はや一週間が経つ。まだ言葉も喋れない小さな息子は、ベビーベッドの上で苦しそうに息をしている。喉が痛いのか、うまく泣くことすらできない。お医者様から頂いた薬はどれも全く効かず、日本にいた頃から食べさせていた離乳食も受け付けずに吐いてしまう。入院できる病院もなかなか見つからず、どこの病院に行っても「これは入院してもどうしようもない」なんて言われる始末だ。
「誰か助けて……」
途方に暮れてベビーベッドに縋り付いていたら、いつの間にか日本にいた頃住んでいた団地にいた。夫も息子もいない、空っぽで寂しい部屋に、私は一人で、やはり泣いていた。暗い部屋でいつまでもそうして泣いていたら、ふと誰かの気配がした。振り返るとそこには、小学生くらいの男の子が立っていた。黒髪の男の子は、「おやおや」と大人びた声を上げた。
「たいそう悲しくて暗い、美味しそうな夢だと思ったら……。あんた、日本の人かい」
「そ、そうだけど」
男の子は私が返事する間に、部屋のカレンダーをむしり取って口に放り込んでしまった。
「寂しさと絶望の味だね、ご馳走様」
ひとしきりむしゃむしゃと咀嚼し終えて、男の子は大きな黒目で私を見た。
「美味しい夢を食べさせてくれたし、同郷のよしみだ。どうやら今晩は天使の兄ちゃんも夢の中みたいだし、繋いでやるよ」
「え……?」
ぽかんとする私に構わず、男の子は部屋の壁をさくさくと掘り進んで、穴を開けてしまった。外には靄がかかっていてよく見えない。男の子が何やら手を動かすと、そこに道ができた。
「さ、ここを辿っていくといい。お願い事は自分で言うんだよ」
「は、はい……?」
訳が分からないままに、私はその道を進んだ。さっきの男の子はもういないけれど、彼の言葉によればどうやらこれは夢らしいから、ちょっと不思議なことが起きたっておかしくはないだろう。多分。
暗がりの中、かろうじて見える足場を踏み外さないよう慎重に歩いていくと、やがて何かが見えてきた。空高くから差し込む月の光に照らされて、その姿がはっきりと目に映った。
「……天使」
宗教に興味のない私には馴染みの薄い存在なのに、なぜだろう、白い光に浮かび上がったその姿は、とても神々しく思えた。繊細でふわふわとした金髪を顔の周りに揺らし、白い衣服を身に纏った天使は、背中から生えた翼をちょっと揺らしてこちらを向いた。どうやら今まで祈っていたらしく、ほっそりとした指が体の前で組まれていた。
「おや。お客様とは珍しいですね。獏君の計らいかな」
「ばく……?」
よく分からない言葉を繰り返してからハッとした。私には『お願い事』があったのだ。
「あ、あの! これが夢の中で、あなたが私の夢に出てきているだけの存在かもしれないのは重々承知なんですけれど……」
天使は、ふわりと微笑んだ。
「何か、どうしても奇跡に頼りたいことがあるのですね。聞きましょう」
言わずとも通じた。私は息せき切って、願いを口にした。天使は頷き、私の体をそっと抱き寄せて、背中を優しくさすってくれた。とても芳しい花の香りに包まれて、私は久しぶりに幸せな気持ちで目を閉じた。
そうして目を開けると、そこは元通り、息子のベビーベッドの前だった。やっぱり今までのはただの夢だったのだろう。それにしてもリアルで、ほっとできる夢だった……。
思い出しながらベッドの上を見て、私は文字通り飛び上がった。すっかり元気になった様子の息子が、空腹を訴えて元気に泣いている。
「治った……! 治ったんだわ!」
すっきりした様子の息子を抱きしめると、あの花の香りがした気がした。