14話 Fly me to the moon.

 聖バレンタインの祝日から、あの男に会うたびに、私は自分の感情と直面することとなった。あの日贈られた茶葉は、まだ封を切れていない。「勿体ない」という日本の言葉が、この場合ぴったり当てはまる。小箱ごと棚の中にしまってあるカードも、見ると呼吸が苦しくなるので、あれから一度も出していない。
 この感情の正体については、はっきりとは分からない。が、ひょっとすると、というひとつの推測がある。そして、そのことに対して、私の中には驚くほど葛藤がない。初め、あの男に身体を触られたときに身を苛んだ主への罪悪感が、今は全くないのだ。あのときは主から賜った身体を穢されたという悔しさがあったが、今はむしろ、高揚感と不安とが入り混じったような、幸福と不幸が同時に私の四肢を引き裂こうとしているような、そしてそれが妙に嬉しいような……非常に利己的で排他的な、およそ天使にはあるまじき感覚が私の全てを支配している。それが、あの男を前にしたときに、私をどうしょうもなく無力にするのだ。全てを投げ打って、あの男に自ら触れてしまいたくなる衝動を抑えるので精いっぱいになってしまう。ひと月ほど姿が見えなかっただけで落ち着きを失ってしまうくらいに、私の中で、あの悪魔の存在は大きくなっていた。
 だから直属の上司である大天使に直接呼び出されたときには、心当たりがひとつもないという訳ではなかった。身の潔白を心の底から訴えられるような、図太い神経の持ち合わせも。
 大天使は、白いばかりの何の装飾もない執務室で、やはり白い机に向かって書き物をしていたが、私が入ると顔を上げた。冷静な表情に、あるかなきかの曇りの影が落ちる。
「お前を呼び出したのは他でもない。自分で気が付いているかは知らないが、……羽根の先が、黒く染まりかけている」
 私は改めて、自らの背の羽根を確認した。目視できる範囲では、指摘されるような色の変化は見られない。しかし、聖性の管理に特化した大天使が言うのだ、まず間違いもないだろう。……ああ、本当に、私は。
「私は……」
「堕天するだろう」
 薄々、あり得るかもしれないとは思っていた。そうなっても良いという思いを抱いたことも、確かにある。だが、心のどこかで、まさか自らの聖性が蝕まれるようなことはあるまいと、たかをくくっていたのも事実だ。堕天、という言葉を実際に耳にすると、無意識にせよ、していた筈の覚悟が、やはり大きく揺らぐ。
「堕天は、……つまり主の側から、敵の側に堕ちるということだ。私はお前のことを高く評価してきた。他の数多の天使たちよりも、お前には人間に寄り添う姿勢が備わっている。我々は主の下で主の意向を人間界に反映させるよう動くために同質同傾向になりやすいが、お前のように、違った視点から物事を見られる天使も必要だと思っていた」
 大天使は、私たちに共通の穏やかな声音で、しかし淡々と言う。天使にしては珍しい暗色の髪が、天上界の絶えぬ光を反射してきらめく。それはそのまま彼の威光、つまりは主の恩寵を示すものだ。今、私が目の前にしている相手は、主に最も近いかもしれない御方だ。
「……残念だよ」
 ゆっくりと首を振る大天使の全身から、憂いが伝わってくる。私は今更になって震えだした身体を抑えながら、声を絞り出した。
「私が堕天したら……どうなりますか」
「お前も前例を知らないわけではないだろう。……安心しなさい。そうなったら、私がしっかり始末をつけてやる。だから、せめてそれまでの間、出来る限りの善を」
 始末をつける、というのはこの場合、悪魔に対するのと同等の処置を行うということだ。つまり……完全に消滅させられる。
 分かってはいた。今まで、決して少なくはない仲間たちが、おのおの事情こそ違えど、同じ末路を辿ってきたことを、噂で知ってはいた。……けれど、実際にその可能性を、いや未来を突き付けられる日が来るとは。
「……失礼します」
 ぐらぐらする視界の中で地上へと戻る道へ踏み出したとき、背後で大天使の声が言った。
「きっと、全ては主の計画のうちなのだ。運命を受け入れて、成すべきことを成せ」
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