95話 天使と悪魔と忘却の悪魔

 数日後、本当に何もなかったかのように、世界は平穏を取り戻した。人々にとって聖書が消えた期間なんてなかったし、ましてや改竄されたかもしれないなんて考える者はいない。どのバージョンも元からあったごとく世界に存在しており、堂々と聖職者の手の中にある。もちろん、天使や悪魔は『あったこと』を正確に覚えている。が、しかし、消えた聖書は『戻ってきた』のだ。誰も細かい内容にケチなんてつけなかったし、何らかの魔法や奇跡の不具合だったのだろうと話題にもしない。
 そういえば確かに、こんなことが数世紀前にもあった。ような気がする。
 ぼんやり思いながら新聞を眺めているところに、天使がやって来た。また重そうな鞄を抱えている。予想通り、中身は聖書だった。
「今、私の記憶している以前の聖書と逐一照らし合わせて、相違箇所を炙り出しているところでね……」
 弾んだ声に耳を傾けながら、俺は聖書から距離を取る。何の変哲もない、麗らかな初夏の日が過ぎてゆく。
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