95話 天使と悪魔と忘却の悪魔
「これも質問なんだが、……どうして今更? 聖書がなくなれば世界中が混乱に陥るだろうなんてことは、凡百の悪魔だって一度は思いつくことだが、それだけの規模の魔法を使いこなすことができないからお蔵入りになるアイディアだ。だがお前なら、もっと早く実行に移せていたんじゃないのか?」
忘却の悪魔はぽかんと口を開けた。
「確かに、当然の疑問だ。君は鋭いな」
答えになっていない言葉に何も返せずいる間に、再び先ほどの本が出現した。忘却の悪魔はそのページを繰り始めた。
「ふん、ふんふんふん……なるほど、なるほど」
俺は天使の方を見たが、天使も呆気にとられているようだ。やがて忘却の悪魔はパタンと本を閉じた。
「先ほどの君の質問の答えがわかったよ。どうやら、これ定期的にやってるみたいだな、ワタシ」
「は?」
馬鹿みたいな声が出た。
「ワタシも忘れてしまっていたみたいだが、どうやら数世紀ごとに聖書の記憶を消去することを繰り返しているみたいだ。今確認したところによると、聖書を白紙にして、ワタシが考えた文言を足したり設定を少し変えたりして戻していたみたいだな」
と言うことは、俺の当初の予想とは少し違い、現存する聖書の物理的文面やデータも全て消去しているのだろう。その上で改竄して戻すという話だ。しかし、それは……。
「どうしてそんな七面倒くさいことを? 一度消去したのに、改竄して戻すなんて」
信仰を掻き回すためなら、改竄など必要ない。信仰の拠り所が白紙になり、記憶から消えるということが重要なのだ。それなのに改竄して戻すなど、何の意味もない行為だ。
忘却の悪魔は何の衒いもなく、あっけらかんと答えた。
「そりゃあ、自分で考えた物語を書き足したくなったからに決まってるじゃないか」
今度は俺が口をぽかんと開く番だった。
「ってことは何か、お前は……行動の目的をその度に忘れて、途中で変更してきたってことか」
「そういうことになるね」
なんて無軌道な悪魔だ。俺は頭を抱えた。合理性を重んじるのが悪魔の共通事項だった筈だが、こんな奴がこの世にいたなんて。
「いや、ちょっと待て。数世紀ごとにこんなことを繰り返していたって言ったな? それじゃあどうしてこれまで、天使は問題にしてこなかったんだ?」
「天使はそもそも聖書が存在してさえいれば、内容には頓着していないようだったからね」
俺は再び、天使を見た。少し気まずそうに、天使は頬を掻いた。
「確かに……聖書は人間の信仰心を喚起するために重要なものだから、内容の正確性に固執するってことはない、……かも。ちょっとした表現の違いなんかはいつの時代でもあることだし、元に戻りさえすれば、私含め、天使たちは気にしてこなかったかも……」
何のことはない、今回、天使が動いたのは、すぐに頼れる俺という悪魔がいたからというわけだ。「それに、そもそも元々の聖書だって別に正確ではなかったし……」と、天使は呟く。忘却の悪魔はにっこり笑った。
「なら、ワタシが新しく作ったっていいだろう」
「それとこれとは違う」
慌てたのか、最初の取り決めを忘れて、天使は直接、忘却の悪魔に話しかけた。
「悪魔の価値基準で書かれた聖書なんて、人の信仰心を著しく損なうことになるかもしれない。そんなこと……」
この場所を離れてから二人の間で諍いを起こされては困る。俺がこの会話をどう止めるか考え始めた時、忘却の悪魔は首を振った。
「ああ、いや。それなら大丈夫」
「大丈夫だって?」
天使と俺は同時に声を上げた。今の話の流れで、何が大丈夫なのかさっぱりわからなかったのだが。
「うん。ワタシが見たかった混乱は十分見られて満足したから、これ以上の混乱を望んだりはしない。つまりだね。人間たちの信仰心に負の影響を及ぼさない範囲で改竄して、戻してやるよってことさ」
「な……」
普通の悪魔ならまずしないであろう不合理な行動に、天使も唖然としている。忘却の悪魔は座った時と同じように悠然と立ち上がった。
「ワタシの文章力を試す、いい機会だからね。信仰心が失われない、しかし前のものより格段に『面白い』聖書を、人間に戻してやるさ」
やたらと自信たっぷりに羽ペンを回す姿を見ていると、多分こいつは本当にうまいことやってのけるのだろうという気がしてきた。何せ数世紀ごとにそれを繰り返していて、今まで誰からも糾弾されずにいたのだ。
「……ひょっとしてお前、最初からそのつもりだったんじゃないのか?」
忘却の悪魔はひょいと肩をすくめて、舌を出した。
「さあ、どうだったのかな。ワタシも、自分がどういうつもりで始めたのだったかは忘れてしまった」
記録してないことは記憶してないんでね、と踵を返し、と思った時には消えていた。
忘却の悪魔はぽかんと口を開けた。
「確かに、当然の疑問だ。君は鋭いな」
答えになっていない言葉に何も返せずいる間に、再び先ほどの本が出現した。忘却の悪魔はそのページを繰り始めた。
「ふん、ふんふんふん……なるほど、なるほど」
俺は天使の方を見たが、天使も呆気にとられているようだ。やがて忘却の悪魔はパタンと本を閉じた。
「先ほどの君の質問の答えがわかったよ。どうやら、これ定期的にやってるみたいだな、ワタシ」
「は?」
馬鹿みたいな声が出た。
「ワタシも忘れてしまっていたみたいだが、どうやら数世紀ごとに聖書の記憶を消去することを繰り返しているみたいだ。今確認したところによると、聖書を白紙にして、ワタシが考えた文言を足したり設定を少し変えたりして戻していたみたいだな」
と言うことは、俺の当初の予想とは少し違い、現存する聖書の物理的文面やデータも全て消去しているのだろう。その上で改竄して戻すという話だ。しかし、それは……。
「どうしてそんな七面倒くさいことを? 一度消去したのに、改竄して戻すなんて」
信仰を掻き回すためなら、改竄など必要ない。信仰の拠り所が白紙になり、記憶から消えるということが重要なのだ。それなのに改竄して戻すなど、何の意味もない行為だ。
忘却の悪魔は何の衒いもなく、あっけらかんと答えた。
「そりゃあ、自分で考えた物語を書き足したくなったからに決まってるじゃないか」
今度は俺が口をぽかんと開く番だった。
「ってことは何か、お前は……行動の目的をその度に忘れて、途中で変更してきたってことか」
「そういうことになるね」
なんて無軌道な悪魔だ。俺は頭を抱えた。合理性を重んじるのが悪魔の共通事項だった筈だが、こんな奴がこの世にいたなんて。
「いや、ちょっと待て。数世紀ごとにこんなことを繰り返していたって言ったな? それじゃあどうしてこれまで、天使は問題にしてこなかったんだ?」
「天使はそもそも聖書が存在してさえいれば、内容には頓着していないようだったからね」
俺は再び、天使を見た。少し気まずそうに、天使は頬を掻いた。
「確かに……聖書は人間の信仰心を喚起するために重要なものだから、内容の正確性に固執するってことはない、……かも。ちょっとした表現の違いなんかはいつの時代でもあることだし、元に戻りさえすれば、私含め、天使たちは気にしてこなかったかも……」
何のことはない、今回、天使が動いたのは、すぐに頼れる俺という悪魔がいたからというわけだ。「それに、そもそも元々の聖書だって別に正確ではなかったし……」と、天使は呟く。忘却の悪魔はにっこり笑った。
「なら、ワタシが新しく作ったっていいだろう」
「それとこれとは違う」
慌てたのか、最初の取り決めを忘れて、天使は直接、忘却の悪魔に話しかけた。
「悪魔の価値基準で書かれた聖書なんて、人の信仰心を著しく損なうことになるかもしれない。そんなこと……」
この場所を離れてから二人の間で諍いを起こされては困る。俺がこの会話をどう止めるか考え始めた時、忘却の悪魔は首を振った。
「ああ、いや。それなら大丈夫」
「大丈夫だって?」
天使と俺は同時に声を上げた。今の話の流れで、何が大丈夫なのかさっぱりわからなかったのだが。
「うん。ワタシが見たかった混乱は十分見られて満足したから、これ以上の混乱を望んだりはしない。つまりだね。人間たちの信仰心に負の影響を及ぼさない範囲で改竄して、戻してやるよってことさ」
「な……」
普通の悪魔ならまずしないであろう不合理な行動に、天使も唖然としている。忘却の悪魔は座った時と同じように悠然と立ち上がった。
「ワタシの文章力を試す、いい機会だからね。信仰心が失われない、しかし前のものより格段に『面白い』聖書を、人間に戻してやるさ」
やたらと自信たっぷりに羽ペンを回す姿を見ていると、多分こいつは本当にうまいことやってのけるのだろうという気がしてきた。何せ数世紀ごとにそれを繰り返していて、今まで誰からも糾弾されずにいたのだ。
「……ひょっとしてお前、最初からそのつもりだったんじゃないのか?」
忘却の悪魔はひょいと肩をすくめて、舌を出した。
「さあ、どうだったのかな。ワタシも、自分がどういうつもりで始めたのだったかは忘れてしまった」
記録してないことは記憶してないんでね、と踵を返し、と思った時には消えていた。