95話 天使と悪魔と忘却の悪魔
リストの施設を巡って、一日が終わりかけている。夕日が空を染めていくのを見つめながら、天使はため息をついた。
「まさかここまで空振りが続くとは。もうヨーロッパのリストは全てチェックしたんじゃないか」
「いや、まだ残ってるぜ。このリストの中ではバチカンのが一番時間がかかりそうだ、そこで張って待つのもひとつの手だな」
空振りと言っても、かなりのニアミスが続いていた。
俺たちがたどり着いて調べる、その数秒前に忘却の悪魔がそこを発っていたらしい、ということが、もう連続している。だからこのまま黙々とリストを潰していけばいつかは遭遇できるはずで、そうしないのであれば、確実に相手が時間をかけるであろう場所で待ち受けるのが上策だろう。
天使はひとつ頷いた。
「じゃあ、そうしよう。バチカンは私の仕事でよく顔を出すから、書庫にも入れてもらえる筈だ」
そういうわけで、俺たちはキリスト教の総本山、バチカン市国の教会書庫にいる。もちろん悪魔の俺がそんなところにそのまま行ってタダで済むはずはない。ドンパチが起きないように願うこととして、限りなく魔性を抑えた人間の姿に変身し、更に天使に守られながら立っている。
「しかし、お前がここまでしないと来られないような場所に……その悪魔は果たして無事に来られるのだろうか」
天使が手慰みに取り出した書物をめくりながら言う。俺はできるだけ本棚からは離れ、空調の恩恵に預かるフリをして答えた。
「今回のようなことを起こそうと思えば、聖なる場所への立ち入りは当然、必要となる。であれば、それ相応の対策をしてくることだろうさ。人間に変身してしまえば魔性を抑えることができるし、一時的に聖性の強い場所へ立ち入るための魔法なら、俺たちにも伝わっている」
ただ、そんなことをする必要が普段はないだけだ。
天使は頷くが、どこか不安そうだ。
「ところで、私たちが待ち受けている忘却の悪魔というのはどういう悪魔なんだい。忘却魔法が得意だということだが、それ以外に特徴は」
「そうか、そういえば詳しくは話してなかったな。と言っても俺が知っていることも、眼鏡の受け売りなんだが……」
眼鏡の悪魔は、人間の文化の中でも「本」に興味を持って研究していることで有名だ。本人も、「本」に関する知識についてはかなりの自信を持っている。ご主人サマも「本」関連の仕事はあいつに任せることにしているそうだ。このように、天使と違って個性がある俺たち悪魔は何か研究の対象を持って情熱を注ぐことが多い。天使のように言いつけられた仕事に従うことで満足を得られるならいいが、そうではない悪魔にとって、長い一生の余暇を充実したものにすることは、仕事と同程度に重要だ。
忘却の悪魔も始めは眼鏡同様、人間の書物に興味を持っていたという。元々知識欲の強かった奴はさまざまな書物を読み漁ったらしいが、そのうちに、自分でも書いてみたくなった。それからはその興味は書物ではなく「執筆」に移っていったという。
「執筆……? 悪魔が?」
天使は耳を疑うように聞き返した。当然の反応だろう。俺は頷いて請け合った。
「そう、執筆さ。びっくりだろ。悪魔が生産的なことに興味を持つなんてな」
普通、悪魔が何かを研究するにしても、それは人間の作ったものか魔法に関するものを対象とすることが多い。元々、人間の技術を最高レベルで再現できるように作られている俺たち悪魔は、人間の行為の模倣に興味を持つことは滅多にないのだ。
だが件の悪魔は、自分で文章を書くことに情熱を注いでいるという。まったく、天使に恋した悪魔と同程度に珍しい存在だ。
「しかし執筆って……何を書いているんだろう。単なる業務レポートではないんだろう?」
天使が首を傾げる。
「なんでも聞いたところじゃ、物語を書いてるらしい」
「それは……すごいな、どんな物語なんだろうな」
「興味があるなら今度送ろうか」
ごくごく自然に会話に入ってきた声の主に、俺と天使は顔を向けた。忘却の悪魔は俺と同じように、魔性を抑えた人間の姿で立っていた。
身長は百八十センチくらい、男とも女とも取れるような体格と顔立ちをしている。鮮やかな緑の長髪を太めの三つ編みに編み、それを茶色のカンフー服の左肩に垂らしている。それだけでも悪目立ちするというのに、長い前髪で片目を隠し、隠れていない方の目にはモノクルを載せている。よくよく見ると、カンフー服のパンツの上から二本の尻尾が覗いているではないか。
「お前、せっかく人間に変身してるってのに全く隠す気ないじゃないか」
つい呆れて声をかけてしまったが、相手もどこ吹く風で答える。
「今時、いろいろなファッションがあるからね。人間たちも驚きこそすれ、わざわざ詮索してきやしない」
それもそうか。
納得して頷いて、それから俺は相手に向き直った。
「お前が忘却の悪魔だな? 人間たちから聖書の記憶を消して回ってる」
「うん、そうだよ。しかし、よくわかったね。行動を起こしてまだ一日も経ってない」
忘却の悪魔は懐から一冊の本を取り出した。物理的に収納は不可能と思われる分厚さだが、悪魔の持ち物だ、そこはどうとでもなる。同じく取り出した羽ペンを自分の首筋に刺してその血をインクがわりに、何やら書き留め始めた。俺と天使が戸惑っていると、書きながら言う。
「驚かせてごめん。ワタシは忘れっぽくてね。人の記憶を弄っている代償なのか、はたまた大昔に天使から受けた傷のせいか」
羽ペンで持ち上げた前髪の下に、虚無が覗いた。
「だからこうして、自分の行動を逐一記録しているんだ。バチカンの書庫で黒髪の悪魔と金髪の天使に出会う……よし、っと。これでオーケー。さて、聖書の件でワタシに用事のようだね。聞こうじゃないか」
本も羽ペンも消え失せて、忘却の悪魔は悠々と閲覧席に座った。俺は近づいて、その正面に座った。忘却の悪魔が身に纏う、ひんやりとした白い冷気が足に触れる。
「まずは質問だ。お前は一体、何のためにこんなことをしている? ご主人サマのオーダーか?」
忘却の悪魔は面白そうに笑った。
「違うよ、ワタシの独断だ。何のためになんて、この世界の混乱を見ればわかるだろう」
聖書が消え失せた世界は大混乱に陥っている。確かに、信仰心を持った人間たちにはこの上なく迷惑な所業だし、それはすなわち悪魔が付け入る隙ができるということだ。正直、天使に頼まれなければ、俺は動こうとは思いもしなかったろう。数多いる他の悪魔と一緒に、混乱に便乗していた筈だ。
しかし、独断と聞いて安心した。ご主人サマが関わっていないのなら、交渉のしようもある。……いや、ひとつだけ疑問がある。
「まさかここまで空振りが続くとは。もうヨーロッパのリストは全てチェックしたんじゃないか」
「いや、まだ残ってるぜ。このリストの中ではバチカンのが一番時間がかかりそうだ、そこで張って待つのもひとつの手だな」
空振りと言っても、かなりのニアミスが続いていた。
俺たちがたどり着いて調べる、その数秒前に忘却の悪魔がそこを発っていたらしい、ということが、もう連続している。だからこのまま黙々とリストを潰していけばいつかは遭遇できるはずで、そうしないのであれば、確実に相手が時間をかけるであろう場所で待ち受けるのが上策だろう。
天使はひとつ頷いた。
「じゃあ、そうしよう。バチカンは私の仕事でよく顔を出すから、書庫にも入れてもらえる筈だ」
そういうわけで、俺たちはキリスト教の総本山、バチカン市国の教会書庫にいる。もちろん悪魔の俺がそんなところにそのまま行ってタダで済むはずはない。ドンパチが起きないように願うこととして、限りなく魔性を抑えた人間の姿に変身し、更に天使に守られながら立っている。
「しかし、お前がここまでしないと来られないような場所に……その悪魔は果たして無事に来られるのだろうか」
天使が手慰みに取り出した書物をめくりながら言う。俺はできるだけ本棚からは離れ、空調の恩恵に預かるフリをして答えた。
「今回のようなことを起こそうと思えば、聖なる場所への立ち入りは当然、必要となる。であれば、それ相応の対策をしてくることだろうさ。人間に変身してしまえば魔性を抑えることができるし、一時的に聖性の強い場所へ立ち入るための魔法なら、俺たちにも伝わっている」
ただ、そんなことをする必要が普段はないだけだ。
天使は頷くが、どこか不安そうだ。
「ところで、私たちが待ち受けている忘却の悪魔というのはどういう悪魔なんだい。忘却魔法が得意だということだが、それ以外に特徴は」
「そうか、そういえば詳しくは話してなかったな。と言っても俺が知っていることも、眼鏡の受け売りなんだが……」
眼鏡の悪魔は、人間の文化の中でも「本」に興味を持って研究していることで有名だ。本人も、「本」に関する知識についてはかなりの自信を持っている。ご主人サマも「本」関連の仕事はあいつに任せることにしているそうだ。このように、天使と違って個性がある俺たち悪魔は何か研究の対象を持って情熱を注ぐことが多い。天使のように言いつけられた仕事に従うことで満足を得られるならいいが、そうではない悪魔にとって、長い一生の余暇を充実したものにすることは、仕事と同程度に重要だ。
忘却の悪魔も始めは眼鏡同様、人間の書物に興味を持っていたという。元々知識欲の強かった奴はさまざまな書物を読み漁ったらしいが、そのうちに、自分でも書いてみたくなった。それからはその興味は書物ではなく「執筆」に移っていったという。
「執筆……? 悪魔が?」
天使は耳を疑うように聞き返した。当然の反応だろう。俺は頷いて請け合った。
「そう、執筆さ。びっくりだろ。悪魔が生産的なことに興味を持つなんてな」
普通、悪魔が何かを研究するにしても、それは人間の作ったものか魔法に関するものを対象とすることが多い。元々、人間の技術を最高レベルで再現できるように作られている俺たち悪魔は、人間の行為の模倣に興味を持つことは滅多にないのだ。
だが件の悪魔は、自分で文章を書くことに情熱を注いでいるという。まったく、天使に恋した悪魔と同程度に珍しい存在だ。
「しかし執筆って……何を書いているんだろう。単なる業務レポートではないんだろう?」
天使が首を傾げる。
「なんでも聞いたところじゃ、物語を書いてるらしい」
「それは……すごいな、どんな物語なんだろうな」
「興味があるなら今度送ろうか」
ごくごく自然に会話に入ってきた声の主に、俺と天使は顔を向けた。忘却の悪魔は俺と同じように、魔性を抑えた人間の姿で立っていた。
身長は百八十センチくらい、男とも女とも取れるような体格と顔立ちをしている。鮮やかな緑の長髪を太めの三つ編みに編み、それを茶色のカンフー服の左肩に垂らしている。それだけでも悪目立ちするというのに、長い前髪で片目を隠し、隠れていない方の目にはモノクルを載せている。よくよく見ると、カンフー服のパンツの上から二本の尻尾が覗いているではないか。
「お前、せっかく人間に変身してるってのに全く隠す気ないじゃないか」
つい呆れて声をかけてしまったが、相手もどこ吹く風で答える。
「今時、いろいろなファッションがあるからね。人間たちも驚きこそすれ、わざわざ詮索してきやしない」
それもそうか。
納得して頷いて、それから俺は相手に向き直った。
「お前が忘却の悪魔だな? 人間たちから聖書の記憶を消して回ってる」
「うん、そうだよ。しかし、よくわかったね。行動を起こしてまだ一日も経ってない」
忘却の悪魔は懐から一冊の本を取り出した。物理的に収納は不可能と思われる分厚さだが、悪魔の持ち物だ、そこはどうとでもなる。同じく取り出した羽ペンを自分の首筋に刺してその血をインクがわりに、何やら書き留め始めた。俺と天使が戸惑っていると、書きながら言う。
「驚かせてごめん。ワタシは忘れっぽくてね。人の記憶を弄っている代償なのか、はたまた大昔に天使から受けた傷のせいか」
羽ペンで持ち上げた前髪の下に、虚無が覗いた。
「だからこうして、自分の行動を逐一記録しているんだ。バチカンの書庫で黒髪の悪魔と金髪の天使に出会う……よし、っと。これでオーケー。さて、聖書の件でワタシに用事のようだね。聞こうじゃないか」
本も羽ペンも消え失せて、忘却の悪魔は悠々と閲覧席に座った。俺は近づいて、その正面に座った。忘却の悪魔が身に纏う、ひんやりとした白い冷気が足に触れる。
「まずは質問だ。お前は一体、何のためにこんなことをしている? ご主人サマのオーダーか?」
忘却の悪魔は面白そうに笑った。
「違うよ、ワタシの独断だ。何のためになんて、この世界の混乱を見ればわかるだろう」
聖書が消え失せた世界は大混乱に陥っている。確かに、信仰心を持った人間たちにはこの上なく迷惑な所業だし、それはすなわち悪魔が付け入る隙ができるということだ。正直、天使に頼まれなければ、俺は動こうとは思いもしなかったろう。数多いる他の悪魔と一緒に、混乱に便乗していた筈だ。
しかし、独断と聞いて安心した。ご主人サマが関わっていないのなら、交渉のしようもある。……いや、ひとつだけ疑問がある。