95話 天使と悪魔と忘却の悪魔
愛する天使が俺の元を訪ねてきたのは、初夏の麗らかな朝のことだ。麗らかと言ってもこの国のことだ、いつもよりちょっとましな曇天が窓の外に広がっているのを眺めながら、仕事の合間の小休止をとっていたところだった。普段は穏やかな表情を空と同じく曇らせて、天使は俺を見るなり言った。
「手を貸してくれないか」
「もちろんさ。そろそろ来るんじゃないかと思ってた」
天使はテーブルを挟んで俺の正面に座り、携えていた鞄から本を取り出した。俺は慌ててコーヒーカップをどけて、自分も身を引いた。卓上に置かれたのは聖書だった。
「俺や使い魔の連中が不用意に触れたらヤケドしちまう。頼むから気をつけてくれよ……」
「す、すまない」
天使は頭を下げたが、すぐに首を傾げた。
「でも、この状態の聖書に果たして聖性はあるのだろうか」
言いつつ天使の白い指が開いた聖書は白紙だった。昨晩、悪魔の情報網に引っかかった話通りに。
「ふん……。聖性の有無の判断は俺の不得意分野だ。お前にわからない以上、俺が触ることはできない。全部のページがそうなのか?」
天使は頷き、パラパラとページをめくってみせた。
「これは私が所有する本で、世界各国で流通している最もスタンダードなものだが、教会の本でも書店の本でもこうなっていた。それに」
天使は白いケースに入ったタブレットを取り出し、写真フォルダを見せてくれた。いくつもの型の聖書と、その中身が白紙であることを収めた動画が並んでいる。
「これらは私が所有する聖書の写本や、譲り受けた個人蔵書の小部数本なんだが……全て同様に白紙になってしまっている。それだけじゃない。このノートを見てくれ」
天使が取り出したのは至って普通のノートブックで、中には天使の手になる几帳面なアルファベットがきっちり並んでいる。どうやら携わっている教会での仕事に関する覚え書きのようだ。しかし、文面のところどころに不自然な空白が生じているのが見て取れた。
「ここには聖書の文面を引用していた筈なんだ。それが、昨晩からこんなことに」
俺はノートを手に取って、透かしたり目を凝らしたり指を鳴らしてみたりした。しかし、そこに何が書いてあったのかは全くわからない。続いてスマートフォンで検索をかけてみたが、聖書の文面は表示されなかった。
「なるほど。どうやら本当に、聖書の文面が消え失せてしまったらしいな」
「ああ。教会だけじゃない、今日は朝から世界中のキリスト教関係者が大混乱だよ」
俺が仕入れた情報と天使の話を総合すると、どうやら失われたのは聖書の文面という物理的なものだけではないらしい。朝の祈りの文句が口から出て来ず、教会に集まった天使の同僚たち、すなわち聖職者たちは色を失ったそうだ。それを聞いて俺も試しに聖書の文句を口ずさもうとしたが、少なくとも原文通りには無理だった。その意味するところをイメージすることはできるのだが、明確な言葉として発することができない。
「なるほど、なるほど。なんとなく仕組みがわかってきた」
俺の言葉に、天使は身を乗り出した。青い瞳がキラキラと瞬く。
「本当か! さすがラブ、すごいよ!」
「いや、しかし仕組みがわかっても、すぐ解決できる問題ではなさそうだぜ」
途端にしゅんとしてしまった天使の顔を見ながら、言葉を続ける。
「これは聖書の文面が消えたんじゃない、聖書の文面に関する人間たちの記憶が消えたんだ」
聖書の文面は、とどのつまりインクだ。ひょっとすると刺繍糸や石木の刻面かもしれないが、恐らくはそういったものも全て消え失せてしまっていることだろう。コンピュータ上のデータも然りだ。それだけなら誰かが物理的に情報を消去・削除したのかと思うところだが、人間がそれらを口にしたり新たに書き記したり入力したりできなくなっているという事実から考えるに、人間の認識の方が弄られたのだと考える方が自然だ。
つまり、聖書の文面は消えていない。人間の認識からそれらが削除されてしまったために、そこにある筈の文面を誰も認識できなくなってしまったのだろう。
「記憶が……ああ、そういうことか」
天使は頷いた。話が早くて助かる。
「私たち天使も悪魔も、人間の文化に関する知識は人間の認識を元にしている……だから人間の中からその認識が完全に消えてしまうと、私たちの認識にも影響が出るのか……」
「そういうこと。まあ俺たちの記憶が受ける影響は余波みたいなもんで、時間が経てば回復するとは思うが……しかし恐らく完全に文面を復元できるのは、ことを起こした何者かだけだろう」
そして、そういうことをする何者かがどのような存在かは、深く考えなくたってわかる。
「十中八九、俺の仲間だろうな」
「そうだろうと思って、ここに来たんだ。心当たりはあるか?」
天使の問いかけに、俺は肩をすくめた。
「残念ながら、俺も全ての同胞と既知の間柄という訳でもなくてな。ご主人サマに直接聞くわけにもいかない。正直、人間たちや信仰の混乱を見るのは楽しいんだが……天使サマの頼みだからな。ひとつだけ、こういう分野が得意そうな心当たりはある。当たってみよう」
俺はカップの中の液体を飲み干し、立ち上がった。
「手を貸してくれないか」
「もちろんさ。そろそろ来るんじゃないかと思ってた」
天使はテーブルを挟んで俺の正面に座り、携えていた鞄から本を取り出した。俺は慌ててコーヒーカップをどけて、自分も身を引いた。卓上に置かれたのは聖書だった。
「俺や使い魔の連中が不用意に触れたらヤケドしちまう。頼むから気をつけてくれよ……」
「す、すまない」
天使は頭を下げたが、すぐに首を傾げた。
「でも、この状態の聖書に果たして聖性はあるのだろうか」
言いつつ天使の白い指が開いた聖書は白紙だった。昨晩、悪魔の情報網に引っかかった話通りに。
「ふん……。聖性の有無の判断は俺の不得意分野だ。お前にわからない以上、俺が触ることはできない。全部のページがそうなのか?」
天使は頷き、パラパラとページをめくってみせた。
「これは私が所有する本で、世界各国で流通している最もスタンダードなものだが、教会の本でも書店の本でもこうなっていた。それに」
天使は白いケースに入ったタブレットを取り出し、写真フォルダを見せてくれた。いくつもの型の聖書と、その中身が白紙であることを収めた動画が並んでいる。
「これらは私が所有する聖書の写本や、譲り受けた個人蔵書の小部数本なんだが……全て同様に白紙になってしまっている。それだけじゃない。このノートを見てくれ」
天使が取り出したのは至って普通のノートブックで、中には天使の手になる几帳面なアルファベットがきっちり並んでいる。どうやら携わっている教会での仕事に関する覚え書きのようだ。しかし、文面のところどころに不自然な空白が生じているのが見て取れた。
「ここには聖書の文面を引用していた筈なんだ。それが、昨晩からこんなことに」
俺はノートを手に取って、透かしたり目を凝らしたり指を鳴らしてみたりした。しかし、そこに何が書いてあったのかは全くわからない。続いてスマートフォンで検索をかけてみたが、聖書の文面は表示されなかった。
「なるほど。どうやら本当に、聖書の文面が消え失せてしまったらしいな」
「ああ。教会だけじゃない、今日は朝から世界中のキリスト教関係者が大混乱だよ」
俺が仕入れた情報と天使の話を総合すると、どうやら失われたのは聖書の文面という物理的なものだけではないらしい。朝の祈りの文句が口から出て来ず、教会に集まった天使の同僚たち、すなわち聖職者たちは色を失ったそうだ。それを聞いて俺も試しに聖書の文句を口ずさもうとしたが、少なくとも原文通りには無理だった。その意味するところをイメージすることはできるのだが、明確な言葉として発することができない。
「なるほど、なるほど。なんとなく仕組みがわかってきた」
俺の言葉に、天使は身を乗り出した。青い瞳がキラキラと瞬く。
「本当か! さすがラブ、すごいよ!」
「いや、しかし仕組みがわかっても、すぐ解決できる問題ではなさそうだぜ」
途端にしゅんとしてしまった天使の顔を見ながら、言葉を続ける。
「これは聖書の文面が消えたんじゃない、聖書の文面に関する人間たちの記憶が消えたんだ」
聖書の文面は、とどのつまりインクだ。ひょっとすると刺繍糸や石木の刻面かもしれないが、恐らくはそういったものも全て消え失せてしまっていることだろう。コンピュータ上のデータも然りだ。それだけなら誰かが物理的に情報を消去・削除したのかと思うところだが、人間がそれらを口にしたり新たに書き記したり入力したりできなくなっているという事実から考えるに、人間の認識の方が弄られたのだと考える方が自然だ。
つまり、聖書の文面は消えていない。人間の認識からそれらが削除されてしまったために、そこにある筈の文面を誰も認識できなくなってしまったのだろう。
「記憶が……ああ、そういうことか」
天使は頷いた。話が早くて助かる。
「私たち天使も悪魔も、人間の文化に関する知識は人間の認識を元にしている……だから人間の中からその認識が完全に消えてしまうと、私たちの認識にも影響が出るのか……」
「そういうこと。まあ俺たちの記憶が受ける影響は余波みたいなもんで、時間が経てば回復するとは思うが……しかし恐らく完全に文面を復元できるのは、ことを起こした何者かだけだろう」
そして、そういうことをする何者かがどのような存在かは、深く考えなくたってわかる。
「十中八九、俺の仲間だろうな」
「そうだろうと思って、ここに来たんだ。心当たりはあるか?」
天使の問いかけに、俺は肩をすくめた。
「残念ながら、俺も全ての同胞と既知の間柄という訳でもなくてな。ご主人サマに直接聞くわけにもいかない。正直、人間たちや信仰の混乱を見るのは楽しいんだが……天使サマの頼みだからな。ひとつだけ、こういう分野が得意そうな心当たりはある。当たってみよう」
俺はカップの中の液体を飲み干し、立ち上がった。