91話 共に泳ぐように
五月。ぼくのような魔物にうってつけの日和が始まる。ほとんど年中悪天候のこの国でも、やはり春は春だ。ようやく厚いコートを脱いだ人々は浮き足立って外に出かけるが、冬の間よりは確かに届く陽光に、つい、うとうとしてしまうことも多い。公園のベンチや喫茶店、学校の窓際、自宅のテラスや職場の机などなど……その状況は様々だが、そうしてうとうとしている人間が、ぼくは大好きだ。
彼らは大概、その浅い眠りの中で夢を見るから。
ぼくは一日の生活リズムなんてものとは無縁なので、食べたいときに食べることにしている。食べる時には肉体を眠らせないといけないので、食事量と睡眠量が同等になるのが、ぼくの種族の面白いところだと思う。まあそんなわけで、人がうとうと居眠りしがちな時期には、ぼくも家で眠っていることが多い。雇い主である悪魔の兄ちゃんに与えられた居住スペースは、日本にいた頃よりもはるかに安全だし、居心地もいい。だから安心して、眠っている肉体から魂を切り離して、昼日中から夢の世界に旅立っている人間たちの元を訪れられるわけだ。
今日も、よく晴れている。どこからか良質な夢の美味しそうな匂いが漂ってきているのがわかる。まだ昼の三時ではあるが、ちょうど悪魔の兄ちゃんも使い魔の少女ダイアナもそれぞれの用事でいないことだし、食事の調達でもしてこようか。
そう思って、黒一色のリビングから出て行こうとした時だった。ちょうどノブに手をかけようとした瞬間、ドアが開いてダイアナが現れた。明るい空色の瞳がぼくを見下ろしてキラキラ輝いた。
「あら、獏! ちょうどよかった、今から部屋に呼びに行こうかと思ってたのよ」
学校の制服であるシックなチェックのワンピースの裾を翻しながら、ダイアナはぼくの手をとって窓際のソファに連行した。
「ちょっと待って。ダイアナ、ぼくは今、食事にしようと」
「食事? まだ夜じゃないのに?」
不思議そうに首を傾げるダイアナに自分の食事事情を説明しようと思ったけれど、まあいいかとすぐに取りやめた。別に、今すぐ食べないと死ぬわけではない。
「いや、もういいや。で、何の用事だい」
ダイアナはいそいそと学校指定のリュックから何かを取り出し、スマートフォンと共にミニテーブルに置いた。
「それは……折り紙?」
彼女が取り出したのは、日本人なら馴染み深い正方形の色紙、「折り紙」の束だった。しかし日本でならともかく、この国で折り紙とは、珍しい。
「そうよ! マツリカが日本のお土産にくれたの」
そういえば、ダイアナの親友であるマツリカ嬢は日本出身だった。こちらではあまり見ない馴染みの物を見られて、少し興味が湧く。
「それで、これをどうするって」
「あのね、マツリカから折り方を聞いたの。だから、獏と一緒に折りたいなと思って」
ダイアナが束の中心付近から引き抜いた桃色の紙を、ぼくに差し出した。受け取って「何を?」と尋ねると、「コイよ」との答え。
「コイ? また珍しいものを……いや、待てよ。そうか、今日は五日だったか」
ぼくの気づきに、ダイアナはニコニコと嬉しそうに笑う。
「そうよ、気がついた? 日本では五月五日はこどもの日、なんでしょう」
ダイアナが親友マツリカ嬢から日本の知識、主に休みや食べ物に関する知識を得て悪魔の兄ちゃんに色々ねだっているのを見てきたが、こどもの日の知識も得ていたのか。
「こどもの日は男の子の成長を願う日だとマツリカは言っていたけれど、教えてくれた時、こうも言っていたの。今は全ての子供達のための日だ、って。だから、一昨年それを聞いてから毎年、お兄様に柏餅を作ってもらっているのよ」
ぼくは悪魔の兄ちゃんが餅を作る様子を思い浮かべた。あのクールで悪い兄ちゃんが、使い魔の少女のためにお菓子作り……少し気の毒になってしまう。が、あの兄ちゃんはダイアナのことを可愛がっているから、それもそれでありなのかもしれない。
しかし続くダイアナの言葉に、ぼくは多大なる衝撃を受けた。
「それにね、獏は子供でしょう。だから今日は、獏の健康を願う日でもあるのよ」
「な」
ソファの背もたれに背中を押し付けてしまった。これが壁だったら、さぞかし痛かったろう。
「ダイアナ、ぼくは子供じゃないぞ。確かに見かけは子供だが……」
人間の姿をとったぼくは、確かに子供に見える。背丈でいえばダイアナの腰くらいまでしかないし、気に入って身につけている短パンのスーツも子供用だ。でも正体が魔物である以上、それはただの見せかけだ。本来の獏としてのぼくの肉体は、もう百年近くは生きてきているはずだ……正確なところは数えていないから知らないが。
「え、そうだったの! ごめんなさい、てっきり見た目通りの年齢かと思っていたわ」
ダイアナは謝りつつ、「でもそれならなぜ子供の格好を?」と首を傾げた。
「子供の格好の方が動きやすいんだよ。体が軽くて小回りもきくし、路地裏とかに隠れやすい。そこらへんの大人にくっついて歩いていれば、変に干渉されることも少ない。別に人間と直接交渉することもないから、悪い兄ちゃんみたいに外見をよく保つ必要もないしね」
言いながら、これらの利点は今の暮らしにはあまり必要がない物だなということに気が付く。とはいえ、今から慣れた姿を変えるというのもしっくりこない。ダイアナは興味深げに頷きながら聞いていた。
「そうだったのね。それじゃあ私、これまで獏に失礼なことしてきたんじゃないかしら」
「そんなこと気にしなくていいさ。別に、ぼくはダイアナの先輩でもなんでもないんだ。種族が違うんだから」
ぼくは少々出自の変わった魔物、ダイアナも変わった経歴の使い魔で、純粋な人間同士の年齢差のような意識は特に必要のないものだ。
「ありがとう、獏。ううん、でもそれじゃあ……」
何やら困った様子で唸るダイアナに、今度はぼくが首を傾げる番だった。
「ぼくが子供じゃないと困ることでもあるのか」
「いいえ、そういうわけじゃないのよ。だけど」
なおも唸るダイアナにきょとんとしていると、悪魔の兄ちゃんの声が響いた。
「獏。ダイアナはお前のことを祝いたいんだよ」
いつの間に部屋にいたのか、いつも通り全身黒い衣服でバッチリ決めた兄ちゃんが、すぐそばに立っていた。
「わ。悪い兄ちゃん」
「お兄様! お帰りなさい」
兄ちゃんはダイアナにお土産のお菓子を渡しながら、ぼくを見た。
「お前、ここに来てからもう一年以上経ってるだろ。その間、一番お前の世話になってるのは誰だと思う」
「ダイアナだな」
即答できる。なぜならぼくがここに雇われた理由こそが、悪夢ばかり見るダイアナなのだから。
「だろ。だが夢を食う魔物であるお前には、誕生日なんて概念はない。それで日頃の感謝を込めてお前の来訪を祝うには、こどもの日がうってつけじゃないかと……そういうことだよな、ダイアナ?」
兄ちゃんの問いかけに、ダイアナは素直に頷いた。
「すごいわお兄様、その通りよ!」
「ここまで言い当てられて特に恥ずかしがったりもしないのがお前のいいところだよ。というわけでだ、獏。見た目以外該当しないのは重々承知だが、こどもの日、祝われてやってくれ」
雇い主である兄ちゃんにそう言われては仕方ない。ぼくは渋々頷いた。
「まあ別に、そういう理由なら」
「ありがとう、獏!」
ダイアナは嬉々として、スマートフォンで動画を再生し始めた。マツリカ嬢らしき黒髪の少女による、折り紙レクチャー動画のようだ。
「それじゃあ一緒に折りましょう!」
そうして、こどもの日の午後は過ぎていった。
彼らは大概、その浅い眠りの中で夢を見るから。
ぼくは一日の生活リズムなんてものとは無縁なので、食べたいときに食べることにしている。食べる時には肉体を眠らせないといけないので、食事量と睡眠量が同等になるのが、ぼくの種族の面白いところだと思う。まあそんなわけで、人がうとうと居眠りしがちな時期には、ぼくも家で眠っていることが多い。雇い主である悪魔の兄ちゃんに与えられた居住スペースは、日本にいた頃よりもはるかに安全だし、居心地もいい。だから安心して、眠っている肉体から魂を切り離して、昼日中から夢の世界に旅立っている人間たちの元を訪れられるわけだ。
今日も、よく晴れている。どこからか良質な夢の美味しそうな匂いが漂ってきているのがわかる。まだ昼の三時ではあるが、ちょうど悪魔の兄ちゃんも使い魔の少女ダイアナもそれぞれの用事でいないことだし、食事の調達でもしてこようか。
そう思って、黒一色のリビングから出て行こうとした時だった。ちょうどノブに手をかけようとした瞬間、ドアが開いてダイアナが現れた。明るい空色の瞳がぼくを見下ろしてキラキラ輝いた。
「あら、獏! ちょうどよかった、今から部屋に呼びに行こうかと思ってたのよ」
学校の制服であるシックなチェックのワンピースの裾を翻しながら、ダイアナはぼくの手をとって窓際のソファに連行した。
「ちょっと待って。ダイアナ、ぼくは今、食事にしようと」
「食事? まだ夜じゃないのに?」
不思議そうに首を傾げるダイアナに自分の食事事情を説明しようと思ったけれど、まあいいかとすぐに取りやめた。別に、今すぐ食べないと死ぬわけではない。
「いや、もういいや。で、何の用事だい」
ダイアナはいそいそと学校指定のリュックから何かを取り出し、スマートフォンと共にミニテーブルに置いた。
「それは……折り紙?」
彼女が取り出したのは、日本人なら馴染み深い正方形の色紙、「折り紙」の束だった。しかし日本でならともかく、この国で折り紙とは、珍しい。
「そうよ! マツリカが日本のお土産にくれたの」
そういえば、ダイアナの親友であるマツリカ嬢は日本出身だった。こちらではあまり見ない馴染みの物を見られて、少し興味が湧く。
「それで、これをどうするって」
「あのね、マツリカから折り方を聞いたの。だから、獏と一緒に折りたいなと思って」
ダイアナが束の中心付近から引き抜いた桃色の紙を、ぼくに差し出した。受け取って「何を?」と尋ねると、「コイよ」との答え。
「コイ? また珍しいものを……いや、待てよ。そうか、今日は五日だったか」
ぼくの気づきに、ダイアナはニコニコと嬉しそうに笑う。
「そうよ、気がついた? 日本では五月五日はこどもの日、なんでしょう」
ダイアナが親友マツリカ嬢から日本の知識、主に休みや食べ物に関する知識を得て悪魔の兄ちゃんに色々ねだっているのを見てきたが、こどもの日の知識も得ていたのか。
「こどもの日は男の子の成長を願う日だとマツリカは言っていたけれど、教えてくれた時、こうも言っていたの。今は全ての子供達のための日だ、って。だから、一昨年それを聞いてから毎年、お兄様に柏餅を作ってもらっているのよ」
ぼくは悪魔の兄ちゃんが餅を作る様子を思い浮かべた。あのクールで悪い兄ちゃんが、使い魔の少女のためにお菓子作り……少し気の毒になってしまう。が、あの兄ちゃんはダイアナのことを可愛がっているから、それもそれでありなのかもしれない。
しかし続くダイアナの言葉に、ぼくは多大なる衝撃を受けた。
「それにね、獏は子供でしょう。だから今日は、獏の健康を願う日でもあるのよ」
「な」
ソファの背もたれに背中を押し付けてしまった。これが壁だったら、さぞかし痛かったろう。
「ダイアナ、ぼくは子供じゃないぞ。確かに見かけは子供だが……」
人間の姿をとったぼくは、確かに子供に見える。背丈でいえばダイアナの腰くらいまでしかないし、気に入って身につけている短パンのスーツも子供用だ。でも正体が魔物である以上、それはただの見せかけだ。本来の獏としてのぼくの肉体は、もう百年近くは生きてきているはずだ……正確なところは数えていないから知らないが。
「え、そうだったの! ごめんなさい、てっきり見た目通りの年齢かと思っていたわ」
ダイアナは謝りつつ、「でもそれならなぜ子供の格好を?」と首を傾げた。
「子供の格好の方が動きやすいんだよ。体が軽くて小回りもきくし、路地裏とかに隠れやすい。そこらへんの大人にくっついて歩いていれば、変に干渉されることも少ない。別に人間と直接交渉することもないから、悪い兄ちゃんみたいに外見をよく保つ必要もないしね」
言いながら、これらの利点は今の暮らしにはあまり必要がない物だなということに気が付く。とはいえ、今から慣れた姿を変えるというのもしっくりこない。ダイアナは興味深げに頷きながら聞いていた。
「そうだったのね。それじゃあ私、これまで獏に失礼なことしてきたんじゃないかしら」
「そんなこと気にしなくていいさ。別に、ぼくはダイアナの先輩でもなんでもないんだ。種族が違うんだから」
ぼくは少々出自の変わった魔物、ダイアナも変わった経歴の使い魔で、純粋な人間同士の年齢差のような意識は特に必要のないものだ。
「ありがとう、獏。ううん、でもそれじゃあ……」
何やら困った様子で唸るダイアナに、今度はぼくが首を傾げる番だった。
「ぼくが子供じゃないと困ることでもあるのか」
「いいえ、そういうわけじゃないのよ。だけど」
なおも唸るダイアナにきょとんとしていると、悪魔の兄ちゃんの声が響いた。
「獏。ダイアナはお前のことを祝いたいんだよ」
いつの間に部屋にいたのか、いつも通り全身黒い衣服でバッチリ決めた兄ちゃんが、すぐそばに立っていた。
「わ。悪い兄ちゃん」
「お兄様! お帰りなさい」
兄ちゃんはダイアナにお土産のお菓子を渡しながら、ぼくを見た。
「お前、ここに来てからもう一年以上経ってるだろ。その間、一番お前の世話になってるのは誰だと思う」
「ダイアナだな」
即答できる。なぜならぼくがここに雇われた理由こそが、悪夢ばかり見るダイアナなのだから。
「だろ。だが夢を食う魔物であるお前には、誕生日なんて概念はない。それで日頃の感謝を込めてお前の来訪を祝うには、こどもの日がうってつけじゃないかと……そういうことだよな、ダイアナ?」
兄ちゃんの問いかけに、ダイアナは素直に頷いた。
「すごいわお兄様、その通りよ!」
「ここまで言い当てられて特に恥ずかしがったりもしないのがお前のいいところだよ。というわけでだ、獏。見た目以外該当しないのは重々承知だが、こどもの日、祝われてやってくれ」
雇い主である兄ちゃんにそう言われては仕方ない。ぼくは渋々頷いた。
「まあ別に、そういう理由なら」
「ありがとう、獏!」
ダイアナは嬉々として、スマートフォンで動画を再生し始めた。マツリカ嬢らしき黒髪の少女による、折り紙レクチャー動画のようだ。
「それじゃあ一緒に折りましょう!」
そうして、こどもの日の午後は過ぎていった。