10話 my evil valentine.
「つまり、人間の愛というのは矛盾をはらんでいるわけだ……他のあらゆる感情と同様にな」
息継ぎもせずに喋りながら、悪魔は何杯目か分からないブラックコーヒーを飲み干した。その口調はあくまで落ち着き払っており、静かで、人の少ない店内にすんなり馴染んでいる。
「哲学や心理学なんてものが流行る前から、それは変わらない。お前も知っての通りだ。たかだか何千年かで、動物はそこまで変わらない。人間がだいたい今の見た目になった頃から、人間の愛には少しばかりの憎しみ、もしくはそれに似たものが入っているものなのさ」
「憎しみ……」
「脳なんてものが大きくなっちまったからな、そこらの動物より面倒だ。何せ、感情を表現するやり方が他の動物より格段に多い。ただ単に仲良くするとか、もっと直接的によろしくするとかで収まらないからな」
直接的に、という言葉に、思わず顔が熱くなる。悪魔は面白くもなさそうに空のカップを睨み、一言も発さないまま追加のコーヒーを店員に運ばせた。
「その感情表現の中に、例えば喧嘩するとか、殴り合うとか、殺し合うとか、国を捧げるとか、命を投げ出すとかいう行為が入ってくるわけだ」
「しかし、それは結局、愛のためなんだろう 憎しみはお前たちの領分だろうが、愛は……」
「そうだな、天使の管轄だ。でも、お前たち天使には、その愛が理解できない。理解できないものを、どうやって導く お前たちのやっていることは……いや、やってきたことは、どれもこれも、的外れも良いところなのさ」
悪魔の言うことは分かる。他の天使にはきっと納得できない考えだろうが、私には分かってしまう。ずっと抱いてきた疑問、理解したい人間の感情について、敵の方がやはり、知り尽くしていた。
「……だから、お前は至極真っ当だと思うぜ。導く対象について、とことん考えたいんだろう」
思ってもみなかった言葉に、思わず相手をまじまじと見つめる。悪魔は私と目を合わせず、またコーヒーを啜った。
「疑問を持つのは、まあ確かに、天使としては良い傾向ではない。でも、お前のそれは、自らの役割について真摯に向き合った結果だ。俺は、お前のそういうところが好きだよ」
「す……」
動揺が完全に表に出てしまった。傾けていたカップから滴らせてしまった紅茶を慌てて『無かったことにして』、襟を正す。
「からかうな」
「からかってなんかいないさ。まあ、そうやってうろたえる様は、見ていて楽しいけどな」
くっくと笑う顔を睨むが、うまく睨めている気がしない。
「……とりあえず、人間の愛が矛盾したものだということは分かった。……ありがとう」
悪魔はごほごほと咳き込んだ。
「ばか、お前な……悪魔の俺がお前に言うならまだしも、天使のお前が悪魔に礼なんて言うんじゃない。天にも地下にも、無数の耳目があるんだからな。良いか、天使は嘘をつけないんだ。悪魔と違ってな」
「あ、ああ……軽率だった、すまない」
悪魔は不機嫌そうに顔をしかめ、私の背後を透かすように目を細めた。
「……お前、羽はまだちゃんと白いんだろうな」
「な……当たり前だろう」
思わず声を荒らげると、悪魔はなぜかホッと息を吐いた。蛇の目の鋭さが和らぐ。
「なら良い。……ところで、アレから人間の感情に少しでも近づけそうか」
アレ、というのは……アレしかない。白昼、人通りがなかったとは言え、外で堂々と口づけられた……。また感覚がぶり返しそうになり、私は強く首を振った。
「ふうん」
悪魔はそれを否定ととったか、私をじっと見つめる。冷たい黒眼に射止められる……標本の蝶の気分だ。悪魔の手がテーブル越しに伸び、そっと髪に触れた。それだけで鼓動が早まるのを、止めることができない。
「綺麗な髪に埃がついていた」
そう言って、ふっと笑うその顔を、まともに見ることができなかった。指が頬に触れるかと思った、ただそれだけで、こんなにも身体が熱い。
「それじゃあ、俺はもう行く。そろそろちゃんと働かないと、ご主人サマに怒られちまう」
悪魔は立ち上がり、近づいてきた店員に向かって指を鳴らした。店員の意識から、私たちと、消費された何杯ものコーヒーと紅茶の記憶は消えた。流石に悪いので机の上に代金を置く私を、悪魔は面白いものでも見るように眺めていた。
息継ぎもせずに喋りながら、悪魔は何杯目か分からないブラックコーヒーを飲み干した。その口調はあくまで落ち着き払っており、静かで、人の少ない店内にすんなり馴染んでいる。
「哲学や心理学なんてものが流行る前から、それは変わらない。お前も知っての通りだ。たかだか何千年かで、動物はそこまで変わらない。人間がだいたい今の見た目になった頃から、人間の愛には少しばかりの憎しみ、もしくはそれに似たものが入っているものなのさ」
「憎しみ……」
「脳なんてものが大きくなっちまったからな、そこらの動物より面倒だ。何せ、感情を表現するやり方が他の動物より格段に多い。ただ単に仲良くするとか、もっと直接的によろしくするとかで収まらないからな」
直接的に、という言葉に、思わず顔が熱くなる。悪魔は面白くもなさそうに空のカップを睨み、一言も発さないまま追加のコーヒーを店員に運ばせた。
「その感情表現の中に、例えば喧嘩するとか、殴り合うとか、殺し合うとか、国を捧げるとか、命を投げ出すとかいう行為が入ってくるわけだ」
「しかし、それは結局、愛のためなんだろう 憎しみはお前たちの領分だろうが、愛は……」
「そうだな、天使の管轄だ。でも、お前たち天使には、その愛が理解できない。理解できないものを、どうやって導く お前たちのやっていることは……いや、やってきたことは、どれもこれも、的外れも良いところなのさ」
悪魔の言うことは分かる。他の天使にはきっと納得できない考えだろうが、私には分かってしまう。ずっと抱いてきた疑問、理解したい人間の感情について、敵の方がやはり、知り尽くしていた。
「……だから、お前は至極真っ当だと思うぜ。導く対象について、とことん考えたいんだろう」
思ってもみなかった言葉に、思わず相手をまじまじと見つめる。悪魔は私と目を合わせず、またコーヒーを啜った。
「疑問を持つのは、まあ確かに、天使としては良い傾向ではない。でも、お前のそれは、自らの役割について真摯に向き合った結果だ。俺は、お前のそういうところが好きだよ」
「す……」
動揺が完全に表に出てしまった。傾けていたカップから滴らせてしまった紅茶を慌てて『無かったことにして』、襟を正す。
「からかうな」
「からかってなんかいないさ。まあ、そうやってうろたえる様は、見ていて楽しいけどな」
くっくと笑う顔を睨むが、うまく睨めている気がしない。
「……とりあえず、人間の愛が矛盾したものだということは分かった。……ありがとう」
悪魔はごほごほと咳き込んだ。
「ばか、お前な……悪魔の俺がお前に言うならまだしも、天使のお前が悪魔に礼なんて言うんじゃない。天にも地下にも、無数の耳目があるんだからな。良いか、天使は嘘をつけないんだ。悪魔と違ってな」
「あ、ああ……軽率だった、すまない」
悪魔は不機嫌そうに顔をしかめ、私の背後を透かすように目を細めた。
「……お前、羽はまだちゃんと白いんだろうな」
「な……当たり前だろう」
思わず声を荒らげると、悪魔はなぜかホッと息を吐いた。蛇の目の鋭さが和らぐ。
「なら良い。……ところで、アレから人間の感情に少しでも近づけそうか」
アレ、というのは……アレしかない。白昼、人通りがなかったとは言え、外で堂々と口づけられた……。また感覚がぶり返しそうになり、私は強く首を振った。
「ふうん」
悪魔はそれを否定ととったか、私をじっと見つめる。冷たい黒眼に射止められる……標本の蝶の気分だ。悪魔の手がテーブル越しに伸び、そっと髪に触れた。それだけで鼓動が早まるのを、止めることができない。
「綺麗な髪に埃がついていた」
そう言って、ふっと笑うその顔を、まともに見ることができなかった。指が頬に触れるかと思った、ただそれだけで、こんなにも身体が熱い。
「それじゃあ、俺はもう行く。そろそろちゃんと働かないと、ご主人サマに怒られちまう」
悪魔は立ち上がり、近づいてきた店員に向かって指を鳴らした。店員の意識から、私たちと、消費された何杯ものコーヒーと紅茶の記憶は消えた。流石に悪いので机の上に代金を置く私を、悪魔は面白いものでも見るように眺めていた。