75話 ある使い魔の善行
天使様が勤めてらっしゃる教会への道で、私はその幽霊に出会った。一見普通の女の人で、特に血みどろだとか、おどろおどろしいオーラを纏っているとか、そういうこともなかったので、私は最初気づかないで、避けようとした。のに、避けた私に構わず女の人は後退りしてきて……危ない、と思ったときには、何事もなく私の体をすり抜けていた。
もちろん驚いたけれど、お兄様に命を助けられて使い魔になってからは、こういうことも時々ある。だから、ああこの人も人間じゃなかったんだな、と思って、そのまま通り過ぎようとした。
けれど、できなかった。
その人が本当に悲しそうに、泣いていたから。
「ねえあなた、大丈夫?」
気がついたら、そう声をかけていた。涙で濡れた頬を拭いながら女の人は振り向いて、驚いた顔をした。
「お嬢ちゃん、私が見えるの」
「ええ。ちょっと事情があって、見えるわ。……それで、大丈夫? とても悲しいことがあったみたい」
女の人はそれでも躊躇っているようだった。そうか、人通りの多い場所だから、私のことを気遣ってくれているのだ。気がついて、私は指を鳴ら……せないので、ぱんぱん、と手拍子を打った。これで、いいはずだ。
「私なら大丈夫よ、あなたと話している間は他の人から見えないように、透明になっておくから」
「そんな魔法みたいなことができるの。お嬢ちゃんは不思議な子なのね」
幽霊が見えるならそういうこともあるかもしれないと思ったのだろうか。女の人は、ようやくほっとしたようだった。そのまま大通りから少し中通りに入り、小さな一軒家の横に、ふたり並んで座った。まだ高い日が、屋根でぎりぎり遮られて、陰が落ちている。その下に入って、私は女の人の横顔を見つめた。
「さあ、話してみて。私には何もできないかもしれないけれど、話を聞くだけならできるわ」
「ありがとう」
女の人は微笑んで、私たちの背後の、家を指した。
「ここはね、私が生前、暮らしていた家だったの。夫と早くに死に別れてしまったけれど、娘とふたりで、慎ましくも幸せに。けれど私は……」
微笑みが凍った。次の瞬間、それは涙の底にかき消されて見えなくなった。とめどなく、それは溢れてくる。もう、この人の肉体はここにないのに。
『感情と紐づいた身体的反応は、肉体が消えても存続する』
お兄様が前に教えてくれた言葉を思い出す。人間は悲しいときに泣くから、魂だけになっても涙を流すのだ。
「私はあの子を置いて、死んでしまった。あの子にはまだ、してあげたいことがたくさんあったのに。話したいことも、一緒に見たい景色も」
ああ、それは分かるわ。
咽び泣く彼女の言葉を聴きながら、私はいつのまにか頷いていた。私も、パパママとしたかったことが、話したかったことが、一緒に見たかった景色が、たくさんある。それはもう遠い願いで、永遠に叶わないけれど。
だから、目の前の人の気持ちが、痛いほど分かる。
「私は……私は、それが未練なの。心残りでならないの……」
嗚咽が漏れる。私はその背中を、正確にはその背中のあたりを、さすってあげた。触れなくても、暖かさが伝わっていたらいいのだけど。
ひとしきり泣き声を聞いてから、私は、学校で使っている筆記用具を取り出した。お気に入りのチャームがついているボールペンと、白と黒の羽が描かれたメモ帳を構える。
「あなたの気持ちは分かったわ。娘さんのことが心残りで、天国に行けないのね」
「ええ……」
少しだけ落ち着いた女の人に、私は提案をした。
「ひとつ、私にできるお手伝いを思いついたのだけど」
もちろん驚いたけれど、お兄様に命を助けられて使い魔になってからは、こういうことも時々ある。だから、ああこの人も人間じゃなかったんだな、と思って、そのまま通り過ぎようとした。
けれど、できなかった。
その人が本当に悲しそうに、泣いていたから。
「ねえあなた、大丈夫?」
気がついたら、そう声をかけていた。涙で濡れた頬を拭いながら女の人は振り向いて、驚いた顔をした。
「お嬢ちゃん、私が見えるの」
「ええ。ちょっと事情があって、見えるわ。……それで、大丈夫? とても悲しいことがあったみたい」
女の人はそれでも躊躇っているようだった。そうか、人通りの多い場所だから、私のことを気遣ってくれているのだ。気がついて、私は指を鳴ら……せないので、ぱんぱん、と手拍子を打った。これで、いいはずだ。
「私なら大丈夫よ、あなたと話している間は他の人から見えないように、透明になっておくから」
「そんな魔法みたいなことができるの。お嬢ちゃんは不思議な子なのね」
幽霊が見えるならそういうこともあるかもしれないと思ったのだろうか。女の人は、ようやくほっとしたようだった。そのまま大通りから少し中通りに入り、小さな一軒家の横に、ふたり並んで座った。まだ高い日が、屋根でぎりぎり遮られて、陰が落ちている。その下に入って、私は女の人の横顔を見つめた。
「さあ、話してみて。私には何もできないかもしれないけれど、話を聞くだけならできるわ」
「ありがとう」
女の人は微笑んで、私たちの背後の、家を指した。
「ここはね、私が生前、暮らしていた家だったの。夫と早くに死に別れてしまったけれど、娘とふたりで、慎ましくも幸せに。けれど私は……」
微笑みが凍った。次の瞬間、それは涙の底にかき消されて見えなくなった。とめどなく、それは溢れてくる。もう、この人の肉体はここにないのに。
『感情と紐づいた身体的反応は、肉体が消えても存続する』
お兄様が前に教えてくれた言葉を思い出す。人間は悲しいときに泣くから、魂だけになっても涙を流すのだ。
「私はあの子を置いて、死んでしまった。あの子にはまだ、してあげたいことがたくさんあったのに。話したいことも、一緒に見たい景色も」
ああ、それは分かるわ。
咽び泣く彼女の言葉を聴きながら、私はいつのまにか頷いていた。私も、パパママとしたかったことが、話したかったことが、一緒に見たかった景色が、たくさんある。それはもう遠い願いで、永遠に叶わないけれど。
だから、目の前の人の気持ちが、痛いほど分かる。
「私は……私は、それが未練なの。心残りでならないの……」
嗚咽が漏れる。私はその背中を、正確にはその背中のあたりを、さすってあげた。触れなくても、暖かさが伝わっていたらいいのだけど。
ひとしきり泣き声を聞いてから、私は、学校で使っている筆記用具を取り出した。お気に入りのチャームがついているボールペンと、白と黒の羽が描かれたメモ帳を構える。
「あなたの気持ちは分かったわ。娘さんのことが心残りで、天国に行けないのね」
「ええ……」
少しだけ落ち着いた女の人に、私は提案をした。
「ひとつ、私にできるお手伝いを思いついたのだけど」