10話 my evil valentine.

 主の計画は、時に私たちには理解が及ばないことがある。度々の大災害もそうだし、そもそも人間の手の届くところに禁断の果実を配したのは何故なのか、という不思議もある。しかし、天使として造られて何千年も生きてきた私にとって最大の疑問は、愛という感情だ。
 主は全ての生命に等しく愛という要素を与えた。そうしたからには何らかの意図を持ってらっしゃるのに違いない。
 だが、人間を見ていると、分からなくなる。人間は愛の名の下に他を虐げる。自国への愛のために他国を侵し、自己への愛のために他者を蹴落とし、愛する者のために誰かを傷つける。恐ろしいのは、彼らの愛は本物だということだ。
 かの有名な人間の男は、隣人への愛を説いた。自らを愛するように、他も愛せと。それが主の望みなのだとしたら、なぜ、自然とそうなるようにしなかったのだろう。そうすれば、無益で無慈悲で残酷な戦いなど、起きなかったはずだ。
 私の中には、主から与えられた、全ての生命への愛がある。全てに等しく注ぐそれは、人間のそれとは全く違う。人間を正しく導かなくてはならないのに、人間の行動原理に深く関わってくる彼らの愛が、私には分からないままだ。
「君は人間に寄りすぎだ。もっと俯瞰した方が良い」
 以前、仲間の天使に言われた通りなのかもしれない。人間の愛など分からなくても、仕事は果たせる。彼らの愛より大きな愛で包み込み、善い場所へ運んでやることこそが私たちの仕事……分かっている。しかし……。
 こんな詮ないことを考え込んでしまうのは、時期のせいもあるかもしれない。月日、聖バレンタインの祝祭が近づいている。由来はどうあれ、今では人間たちが互いの親愛の情を交換する日だ。カードにメッセージを書いたり、花束を贈ったり。国によっては独自の発展を遂げて、チョコレートを贈ったりなどもするそうだ。もちろん天使には何の関係もない行事だ。正式にキリスト教に認められている訳でもない。だが、人間の愛という不可解なものを考えるきっかけとしては、うってつけではないだろうか。
 ……いや、そんなことは言い訳に過ぎない。時期の問題ではない、私がこんな思考に嵌まり込んでしまうのは。
「愛が分からなければ、憎しみも分からない筈だ、違うか」
 あの悪魔が、慈しむような口づけとともに囁いた言葉が、耳から離れない。人の憎しみを煽る悪魔は、つまり人の愛を理解しているということだ。そして、あのとき感じた感覚……錯覚だと思おうとしたあれが、本当にそうなのだとしたら……。
 そんなことをぼんやりと考えながら、百貨店のウィンドウを眺めている時だった。不意に覚えのある甘い香りがし、隣に、黒髪の男が立っていた。どきりとする。
「よう、天使サマ。一人でショッピングか」
 悪魔は、肌寒い季節でも、上にはジャケット一枚で通すらしい。一応、周りの人間に合わせてコートを着込む私とは大違いだ。
「……何か用か」
「ああ、いや。偶然、通りすがったもんでね。……バレンタインのカード こんなモノ買うのか」
 悪魔は目を細めて、ウィンドウを覗く。本当に不思議そうに、首を傾げて私を見た。
「天使が、何のために ご主人サマのお言葉でも書いて配るのか」
「いや、主は関係ない。単に、人間の文化に興味があるだけだ」
「なるほどね」
 悪魔は肩をすくめた。
「勉強熱心なことだ。そうだな……それなら、俺が人間の愛についてレクチャーしてやろうか」
 なぜ、私が抱いていた疑問を見透かせるのか。
 しかし、そんなことより、悪魔の肩が触れそうなほど近いことの方が気になってしまう。抱きすくめられた時に感じた冷たい体温を、首を這った唇の感触を、絡められた舌と唾液の感覚を、思い出してしまう。
「天使サマ、大丈夫か」
 気がつくと、悪魔が顔を覗き込んでいた。思わず一歩引いて、軽く息を整える。
「ちょっと疲れているだけだ、問題ない」
「それなら良いが。で、どうする」
 気軽に尋ねる、その真意が分からない。これまでこの男にされたことを考えると、簡単に肯くのは危険かもしれない。
「その……レクチャーというのは」
 悪魔は一瞬、ぱちりと音が聞こえそうな瞬きをした。そしてすぐに、片手で目元を覆って笑った。
「いやいや、そうか。余計な警戒をさせちまって申し訳ない」
 まだ喉の奥で笑いながら、悪魔は私を見た。
「大丈夫だ、天使サマ。俺の言うレクチャーは座学だ、実戦じゃない。これまでのようなことはしないさ」
「……それなら……」
 言いかけた時、男の冷たい指が私の手首をするりと掴んだ。邪気がぴりりと肌を刺激する。
「そういうところをつけ込まれるんだぜ、天使サマ。悪魔を相手にしてるんだ、警戒はし過ぎても足りないくらいだろう」
「離せ……」
「ああ、もちろん。これは単なる忠告だからな」
 悪魔はぱっと手を離し、唇だけで笑った。
「まあ今回は、本当に何もしないさ。流石の俺でも、何の計画もなしに無謀はしない」
 触れられていた手首に、微かな痺れが残る。無意識にそこを撫でていたことに気がついて、慌てて腕を組んだ。……名残惜しい そんな、馬鹿な。
「じゃあ、適当にそこらの店にでも入るか」
 悪魔は百貨店の隣の、暗い喫茶店を示した。
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