67話 新しい夜

 無事に年越しのカウントダウンが済み、はしゃいでいたダイアナも目を擦りながら自室に帰って行った、午前一時。悪魔の兄ちゃんと天使の兄ちゃんに暇乞いをして、ぼくも黒い部屋を辞した。まだ宵っ張りはカウントダウンの余韻を楽しんでいる時間だろうと計算して、自室で待つこと一時間。
 午前二時になってから、ぼくは机に顔を伏せて目を閉じ、魂を体から切り離した。俗に言う、幽体離脱みたいなものだ。眠っている体を残して壁をすり抜け、夜空に浮かんだ無数の夢の中から、ダイアナのものを見つけ出す。夢にもその人間の気質が表れるから、見知った人物の夢を探すのは、そう難しい話でもない。今日のダイアナの夢は、鮮やかな明るい色彩で溢れている。ぼくはその中に、そっと足を踏み入れた。
 ダイアナの夢の中には、彼女が昨日見聞きした色々な情報と、彼女の好きな人間たちが、雑多に入り乱れていた。
 瑞々しい草花が元気に育つ美しい庭に、ダイアナとその両親、友人らしい日本人の少女、それに悪魔の兄ちゃんと天使の兄ちゃんがテーブルを取り囲み、和やかに談笑している。遠くには浮世絵のような富士山が見え、鷹が木々に留まっているようだ。よくよく見ると、テーブルの上にはお茶や菓子に混じって、茄子があるように見える。
「すごいじゃないか、こりゃあ正真正銘の吉夢だ」
 思わず笑いが漏れたとき、テーブルの端にもうひとりいるのに気がついた。背丈が他より低い、あれは……。
「ぼく、か?」
 白いシャツと、サスペンダーで釣った半ズボンを身につけた小さな子供。まさしく、ぼくだった。人の夢の中で自分の姿を見るのは初めてで、なんだか不思議な気分だ。しかし、うん。悪くない。
 夢は不安定なものだ。今は吉夢でも、ちょっとした刺激で悪夢に転じることもある。その予兆を示す黒い霧を吸い込んでから、ぼくはその夢を後にした。
 その後いくつかの夢を回って腹も膨れてきた頃、見知らぬ雰囲気の夢が目の端に映った。この数ヶ月でこの街の人間たちの夢の傾向は掴んだつもりだったが、その夢は、今まで見たことがないほど清浄な空気に満ちている。ぼくが入って行くのも気が引けるような夢の世界だったが、結局好奇心に負けて、静かに体を滑り込ませた。
 そこには、現実かと思うような月面の世界が広がっていた。実際に月に行ってきた人でなければ、こんな夢を見ることはできないだろう。曖昧なイメージであれば、こんな風に月の地面に立つことすらできないはずだ。頭上に広がる星空や、彼方に見える青い星も、きっと現実と同じ法則で配置されているのに違いない。
 しかし、どんな人間がこんな夢を……。
 静かに歩を進めていった先に、よく知った背中を見つけた。全身黒色で統一した長身の男と、それに寄り添う金髪の男。悪魔の兄ちゃんと、天使の兄ちゃんだ。
「ダイアナちゃんが話していただろう。日本では毎年、テーマになる動物が違うとか」
「ああ、干支だな。確か今年は……兎、だったか」
 ふたりの穏やかな会話が耳に届き、続いて、悪魔の兄ちゃんが指を鳴らす音がした。するとどこからか、ふわふわとした白い毛並みに包まれた小さな兎たちが現れたではないか。
「じゃあ、これは……悪魔の兄ちゃんの夢か?」
 兎たちが彼らの周りを跳ね回り、天使の兄ちゃんが楽しそうに笑う。
「可愛らしいな。でも、せっかく夢の中なんだから、色んな兎を見てみたいね。そうだな、こんなのはどうかな」
 天使の兄ちゃんが、指揮者のように腕を振る。すると、ふわふわ度合いも可愛さもそのままに、とても大きな、悪魔の兄ちゃんほどもある兎が出現した。天使の兄ちゃんはそれに抱きついて、ふわふわを堪能しているようだ。悪魔の兄ちゃんはその様子を眺めて幸せそうだ。
「……あ、なるほど」
 ようやく合点がいった。これは、ふたりが同時に見ている、ひとつの夢なのだ。夢の共有、なんて滅多にできるものではない。数多の夢を渡り歩いてきたぼくでも初めて目にしたほどだ。普通の魔物や低級の悪魔には不可能な、超絶技巧……それを、このふたりは行っているのだ。
 滅多に目にすることのできない世界に感動さえ覚えながらぽかんと立っている間に、ふたりの周りには踊る兎やら歌う兎、宇宙飛行士の格好をした兎や羽の生えた兎やらが現れていた。ふたりとも、心からリラックスして、その状況を楽しんでいるのがよく分かる。
 これは絶対に崩れることのない、悪夢にも転じることのない、完成された、ふたりだけの世界だ。ぼくが、いつまでもいていい場所ではない。
 来たときと同じようにそっと夢から出て行こうとした瞬間、ふたりがこちらを見た気がした。悪魔の兄ちゃんは少し苦々しげに。天使の兄ちゃんは、悪戯っぽく微笑んで。
 ああ、あのふたりにゃあ絶対に敵わない。
 ドキドキしながら夢から抜け出て、ほっと月を見上げる。そういや日本では、月面に兎がいると考えられていたものだが……あのふたりは、果たしてそれを知っていたのだろうか。
 新しい年を迎えた夜の、新しい月が輝いている。夜明けまでにはまだ時間がある。人々の夢も、まだ終わらないことだろう。
 ぼくは再び、夜の世界を歩き出した。
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