55話 新しい光
昨年の秋の初め、ご主人様から言いつかったのは、簡単な仕事だった。アメリカからこの国に渡ってくる外交官一家を皆殺しにし、こちらの手駒である偽物とすり替える。その上で、国際的な紛争に発展するように、仕事をさせる……。すり替え自体は手間がかかって面倒ではあるが、そう難しい技術は必要ない。食事に毒でも混ぜてしまえば、それで一件落着。汚れない魂も、殺されればその無念ゆえ、天国への道を見つけることができず、彷徨うことになるものが大半だ。そうなってしまえば、こちらのもの。ちょっとした準備だけで自動的に、わたしの手元には三人分の魂と外交官一家という駒が揃う、そういう手筈だった。
それが、なぜだか失敗した。
まず、愚鈍な使い魔たちが、あろうことか、外交官一家のひとり娘を取り逃した。両親が苦しむのを目の当たりにし、食事を中断したその娘は、屋敷の外へ逃げ出した。後で、使い魔たちは聞き苦しい言い訳をした……『あの娘は幻術が効かなかったんです。両親の姿に変身して見せても無駄でした。しかも、かなりすばしっこかった……そうでなければ、取り逃したりなどしませんのに』。全く、思い出すだに腹立たしい。たかが小娘ひとりに、このわたし自身が街を駆けずり回る羽目になったのだから。
幸い、娘の姿はすぐに見つかった。警察官に姿を変えて待ち構えていたところに、のこのこと顔を出してくれたのだ。しかし、やたらと勘が鋭いようで、わたしをひと目見ただけで、弾かれたように飛び出して行方をくらましてしまった。
そこで、違和感を抱いた。
逃げ足が速すぎないか。
最近、この国に引っ越して来たばかりの小さな娘に、土地勘などあるものか。あったとしても、それはせいぜい自宅の周辺と、通っている学校への通学路においてくらいだろう。それが、滅多に足を運ぶことのない筈の警察署まで迷わず辿り着き、さらには、そこから煙のように消え失せたのだ。
これは、おかしい。少なくとも、娘はひとりで行動しているわけではない。
脳裏に閃いたのは、あの悪魔……黒髪黒目、燃えるような赤い蛇の瞳孔を持った男だった。あの男は、あの小娘が逃げ出していった、ちょうどそのとき、家の前に立っていた。わたしが人間の少女を追っていると話すと、自ら手伝いを申し出てきたが……あれが演技だったのだとしたら。小娘ひとり、匿おうと思えばどうとでもなる。変身させるのも隠すのも、我々なら造作もない。警察署への道を教えるのも、そこから逃すのも……。
確証があるわけではなかった。あの悪魔がそのような、何の得にもならない合理的でない判断を取るとも思えない。だが、可能性として、あり得ないわけではない。およそこの世界において「本当にあり得ないこと」など、恐らくひとつもないのだから。
結局のところ、小娘は翌朝、自ら自宅へ戻って来た。幻術が効かなかったという話をひとまず信じて配置していた手駒の人間が、その小さな肉体に銃弾を打ち込んだ。確実に心臓を撃ち抜いたという話だったが、その報告を聞いて駆けつけるまでの僅かの間に……娘の死体が、消えていた。
死体は歩かない。自然に消滅もしない。娘の死体は、何者かに持ち去られた。
外交官一家のすり替えは達成された。小娘の死体がなくても、用意していた偽者を家に住まわせ、全ての行動パターンを踏襲させることは可能だ。また、 彷徨 える二つの魂も、使い魔が捕らえていた。そのままでは地獄に持ち帰ることができずとも、その無念を煽って悪霊にしてしまえば、落とすこともできる。
だが、仕事は失敗したと言ってよい。小娘の死体を確認できず、その魂も確保できていないのだから。もしも小娘が生きていて、親類か親切な他人のもとで両親殺害の犯人を探すつもりでいるのであれば、まだ対処の仕様がある。こちらには人間の手駒がごまんといるのだ、その気になればすぐに捕獲できるだろう。しかし、そうでないのならば。つまり、人間のもとで生きているわけではないのだとしたら……、面倒極まりない。捕獲することは難しいし、そうなれば任務を完全に遂行できなかったという記録が残ることになる。
「お前は本当に神経質だよな。ご主人様からのオーダーだからと言って、些事に至るまで完璧に遂行する必要なんざ、ないんだぜ。たしかに仕事の記録はおれたちの査定には重要だが、一番は目的を達成することだ。その過程で手に入ったかもしれない魂のことをいくら考えたって仕方ないだろう。手に入ったもので満足しておけよ」
交友のある悪魔のひとりはそんなことを言っていたが、わたしの懸念事項は記録だけではなかった。イレギュラーを放置しておくと、後々に差し支える可能性がある、そのことをこそ気にしているのだ。
世界中に張り巡らせている情報網に、小娘を保護した人間がいるという話は、全く引っかかってこない。死体もない、魂も見つからない、万が一生きているのだとしても、その姿を、誰にも見付けられない。つまり、人間に保護されたという線は、限りなく薄い。
人間のもとで生きているのでなければ、考えられるのは、霊的存在による庇護を受けているという可能性だ。もしも天使の庇護を受けているのであれば、敵対存在の側に回るわけだから、もちろんのこと厄介だ。かと言って悪魔の庇護を受けているのならよいかと言うと、そうでもない。普通、業務外のところで人間を助ける悪魔など、いないからだ。どんな理由があるにせよ、一筋縄ではいくまい。ことがあって数ヶ月経った今でも、人間を拾った悪魔がいるという話は聞かない。仮に娘を保護したのが悪魔だったとすれば、誰の仕事に関わる魂なのか探って、交渉に来る筈なのに、だ。
だから、小娘を保護したのが天使であれ悪魔であれ、それはわたしに益する者ではないということになる。
そんな懸案を抱えたまま、他の仕事に勤しんでいたときだった。
ダイアナ・エバ・クラークを見かけたのは。
それが、なぜだか失敗した。
まず、愚鈍な使い魔たちが、あろうことか、外交官一家のひとり娘を取り逃した。両親が苦しむのを目の当たりにし、食事を中断したその娘は、屋敷の外へ逃げ出した。後で、使い魔たちは聞き苦しい言い訳をした……『あの娘は幻術が効かなかったんです。両親の姿に変身して見せても無駄でした。しかも、かなりすばしっこかった……そうでなければ、取り逃したりなどしませんのに』。全く、思い出すだに腹立たしい。たかが小娘ひとりに、このわたし自身が街を駆けずり回る羽目になったのだから。
幸い、娘の姿はすぐに見つかった。警察官に姿を変えて待ち構えていたところに、のこのこと顔を出してくれたのだ。しかし、やたらと勘が鋭いようで、わたしをひと目見ただけで、弾かれたように飛び出して行方をくらましてしまった。
そこで、違和感を抱いた。
逃げ足が速すぎないか。
最近、この国に引っ越して来たばかりの小さな娘に、土地勘などあるものか。あったとしても、それはせいぜい自宅の周辺と、通っている学校への通学路においてくらいだろう。それが、滅多に足を運ぶことのない筈の警察署まで迷わず辿り着き、さらには、そこから煙のように消え失せたのだ。
これは、おかしい。少なくとも、娘はひとりで行動しているわけではない。
脳裏に閃いたのは、あの悪魔……黒髪黒目、燃えるような赤い蛇の瞳孔を持った男だった。あの男は、あの小娘が逃げ出していった、ちょうどそのとき、家の前に立っていた。わたしが人間の少女を追っていると話すと、自ら手伝いを申し出てきたが……あれが演技だったのだとしたら。小娘ひとり、匿おうと思えばどうとでもなる。変身させるのも隠すのも、我々なら造作もない。警察署への道を教えるのも、そこから逃すのも……。
確証があるわけではなかった。あの悪魔がそのような、何の得にもならない合理的でない判断を取るとも思えない。だが、可能性として、あり得ないわけではない。およそこの世界において「本当にあり得ないこと」など、恐らくひとつもないのだから。
結局のところ、小娘は翌朝、自ら自宅へ戻って来た。幻術が効かなかったという話をひとまず信じて配置していた手駒の人間が、その小さな肉体に銃弾を打ち込んだ。確実に心臓を撃ち抜いたという話だったが、その報告を聞いて駆けつけるまでの僅かの間に……娘の死体が、消えていた。
死体は歩かない。自然に消滅もしない。娘の死体は、何者かに持ち去られた。
外交官一家のすり替えは達成された。小娘の死体がなくても、用意していた偽者を家に住まわせ、全ての行動パターンを踏襲させることは可能だ。また、
だが、仕事は失敗したと言ってよい。小娘の死体を確認できず、その魂も確保できていないのだから。もしも小娘が生きていて、親類か親切な他人のもとで両親殺害の犯人を探すつもりでいるのであれば、まだ対処の仕様がある。こちらには人間の手駒がごまんといるのだ、その気になればすぐに捕獲できるだろう。しかし、そうでないのならば。つまり、人間のもとで生きているわけではないのだとしたら……、面倒極まりない。捕獲することは難しいし、そうなれば任務を完全に遂行できなかったという記録が残ることになる。
「お前は本当に神経質だよな。ご主人様からのオーダーだからと言って、些事に至るまで完璧に遂行する必要なんざ、ないんだぜ。たしかに仕事の記録はおれたちの査定には重要だが、一番は目的を達成することだ。その過程で手に入ったかもしれない魂のことをいくら考えたって仕方ないだろう。手に入ったもので満足しておけよ」
交友のある悪魔のひとりはそんなことを言っていたが、わたしの懸念事項は記録だけではなかった。イレギュラーを放置しておくと、後々に差し支える可能性がある、そのことをこそ気にしているのだ。
世界中に張り巡らせている情報網に、小娘を保護した人間がいるという話は、全く引っかかってこない。死体もない、魂も見つからない、万が一生きているのだとしても、その姿を、誰にも見付けられない。つまり、人間に保護されたという線は、限りなく薄い。
人間のもとで生きているのでなければ、考えられるのは、霊的存在による庇護を受けているという可能性だ。もしも天使の庇護を受けているのであれば、敵対存在の側に回るわけだから、もちろんのこと厄介だ。かと言って悪魔の庇護を受けているのならよいかと言うと、そうでもない。普通、業務外のところで人間を助ける悪魔など、いないからだ。どんな理由があるにせよ、一筋縄ではいくまい。ことがあって数ヶ月経った今でも、人間を拾った悪魔がいるという話は聞かない。仮に娘を保護したのが悪魔だったとすれば、誰の仕事に関わる魂なのか探って、交渉に来る筈なのに、だ。
だから、小娘を保護したのが天使であれ悪魔であれ、それはわたしに益する者ではないということになる。
そんな懸案を抱えたまま、他の仕事に勤しんでいたときだった。
ダイアナ・エバ・クラークを見かけたのは。