54話 貴女は白い花
久しぶりの学校は、やっぱりとても楽しい場所だった。
私はダイアナ・エバ・クラークとしてではなく、全くの別人として、一日だけ見学に来たのだという建前で、校内を自由に歩き回った。懐かしい体育館にグラウンド、テニスコート、温室、音楽室、美術室、図書室……。たった数ヶ月前まで、私は自分自身として、ここで楽しく過ごしていたのだ。
案内役は断って、ひとりで数時間うろついて、休憩がてらカフェテリアに入ってお茶を飲んでいるところに、声をかけられた。聞き覚えのあるその声のトーンに、顔を上げる。
ティーカップを取り落としそうになった。
「あなた、見学の人? ひとりで大丈夫?」
艶やかな黒髪と黒い瞳の女子生徒……どう見てもアジア系の彼女が、日本人だということを、私は知っている。
「……マツリカ」
「え?」
私の言葉に、今度は彼女が目を見開いた。
「なんで私の名前、知ってるの? 会ったことあった?」
私は慌てて首を振った。数ヶ月前まで一緒の授業をとって、毎日ランチを共にしていた親友だから、なんて、口が裂けても言えない。第一、彼女にとってはまだ、ダイアナ・エバ・クラークは……。
「ううん、違うの。さっき、誰かがあなたのことをそう呼んでいたのを聞いていて、珍しい名前だなと思って気になっていたものだから」
急にごめんなさい、と頭を下げる私に、マツリカは柔らかく微笑んだ。丸くて優しげなその目がキュッと細くなるのを、隣で見ているのが、大好きだった。
「ああ、そうだったの。いいえ、私の方こそ急に話しかけて、ごめんなさい」
ここ、いい? と、マツリカは、正面の席に座った。
「あなた、今日はずっとひとりなの?」
「ええ。……今度、近所に引っ越してくることになったから、色々な学校を見学しているの」
そうなんだ、とマツリカは頷く。その髪の毛から、ふわりと花の香りが漂ってくる。
ああ、だめだ。泣いてしまう。
「ここはいい学校よ。授業はわかりやすいし、みんな優しいし。設備は……ちょっと古臭いところがあるけど、まあ伝統があるってことね。それに何より、このカフェが素敵」
マツリカは、落ち着いた内装の室内を見渡す。そうだ、ここは彼女のお気に入りの場所だった。私が半年ほど前にこの学校に転入してきた日、彼女と最初に話したのもここだった。
『ねえ、私たち、気が合いそうね』
そう言って、彼女はその瞳に私を映して……
「ねえ、私たち、気が合いそうな気がするわ」
「…………!」
叫び声を抑えるのが大変だった。初めて話したときと、同じ言葉。
「何だか、初めて会った気がしないの。変ね。ずっと前から友達だったみたい」
じっと私を見つめる彼女に私は何も言えず、ただ、その声に耳を澄ませて、次の言葉を待つ。マツリカは、私の内心には気がつかないまま、にこやかに言う。
「ねえ、あなたの名前を教えてくれない。もしかしたら今度、ここに通うかもしれないんでしょう」
「……マリア」
「マリア! いい名前ね。どこか私の名前と似ているし」
マツリカ、という名前の響きが、私は好きだった。ううん、今でも好きだ。できれば、私の名前も、呼んでほしかった。偽名ではなく、本当の名前を。
けれど、そんなことは頼めない。
「ねえマリア。あともう少しだけ、一緒にお話ししてもいいかしら」
「もちろん。……私も、あなたとは気が合いそうな気がするの」
私はダイアナ・エバ・クラークとしてではなく、全くの別人として、一日だけ見学に来たのだという建前で、校内を自由に歩き回った。懐かしい体育館にグラウンド、テニスコート、温室、音楽室、美術室、図書室……。たった数ヶ月前まで、私は自分自身として、ここで楽しく過ごしていたのだ。
案内役は断って、ひとりで数時間うろついて、休憩がてらカフェテリアに入ってお茶を飲んでいるところに、声をかけられた。聞き覚えのあるその声のトーンに、顔を上げる。
ティーカップを取り落としそうになった。
「あなた、見学の人? ひとりで大丈夫?」
艶やかな黒髪と黒い瞳の女子生徒……どう見てもアジア系の彼女が、日本人だということを、私は知っている。
「……マツリカ」
「え?」
私の言葉に、今度は彼女が目を見開いた。
「なんで私の名前、知ってるの? 会ったことあった?」
私は慌てて首を振った。数ヶ月前まで一緒の授業をとって、毎日ランチを共にしていた親友だから、なんて、口が裂けても言えない。第一、彼女にとってはまだ、ダイアナ・エバ・クラークは……。
「ううん、違うの。さっき、誰かがあなたのことをそう呼んでいたのを聞いていて、珍しい名前だなと思って気になっていたものだから」
急にごめんなさい、と頭を下げる私に、マツリカは柔らかく微笑んだ。丸くて優しげなその目がキュッと細くなるのを、隣で見ているのが、大好きだった。
「ああ、そうだったの。いいえ、私の方こそ急に話しかけて、ごめんなさい」
ここ、いい? と、マツリカは、正面の席に座った。
「あなた、今日はずっとひとりなの?」
「ええ。……今度、近所に引っ越してくることになったから、色々な学校を見学しているの」
そうなんだ、とマツリカは頷く。その髪の毛から、ふわりと花の香りが漂ってくる。
ああ、だめだ。泣いてしまう。
「ここはいい学校よ。授業はわかりやすいし、みんな優しいし。設備は……ちょっと古臭いところがあるけど、まあ伝統があるってことね。それに何より、このカフェが素敵」
マツリカは、落ち着いた内装の室内を見渡す。そうだ、ここは彼女のお気に入りの場所だった。私が半年ほど前にこの学校に転入してきた日、彼女と最初に話したのもここだった。
『ねえ、私たち、気が合いそうね』
そう言って、彼女はその瞳に私を映して……
「ねえ、私たち、気が合いそうな気がするわ」
「…………!」
叫び声を抑えるのが大変だった。初めて話したときと、同じ言葉。
「何だか、初めて会った気がしないの。変ね。ずっと前から友達だったみたい」
じっと私を見つめる彼女に私は何も言えず、ただ、その声に耳を澄ませて、次の言葉を待つ。マツリカは、私の内心には気がつかないまま、にこやかに言う。
「ねえ、あなたの名前を教えてくれない。もしかしたら今度、ここに通うかもしれないんでしょう」
「……マリア」
「マリア! いい名前ね。どこか私の名前と似ているし」
マツリカ、という名前の響きが、私は好きだった。ううん、今でも好きだ。できれば、私の名前も、呼んでほしかった。偽名ではなく、本当の名前を。
けれど、そんなことは頼めない。
「ねえマリア。あともう少しだけ、一緒にお話ししてもいいかしら」
「もちろん。……私も、あなたとは気が合いそうな気がするの」