53話 愛の白の朝

 小鳥の囀りが窓の外から聞こえてくる。通勤通学に向かう人々の活気は、まだない。早朝というには早すぎる時間帯、タブレットから流れるクラシックに耳を傾けつつ紅茶を淹れていると、インターホンが鳴った。映し出されたエントランスの画面には、私の悪魔が映っていた。
「グッモーニン、天使サマ」
 きちんと解錠を待ってから入って来た悪魔に、私は首をかしげる。
「おはよう、ラブ。しかし、どうしたんだい。こんな朝早くから」
 天使にも悪魔にも、時間などは関係ない。肉体的な休息が必要ではない霊的存在である私たちには、朝も晩もない。とは言え、天使である私には、人間の中に混じって行う仕事がある。他の数多の通勤者と同じように、メインストリートを人波に乗って、職場へ向かわなくてはいけない。それが分かっているから、こんな早い時間に悪魔が訪ねて来たことはなかった。
 黒い革のジャケットの内ポケットから、悪魔はスッと紙片を取り出した。
「今日は、この間のケーキのお返しをしようと思ってな」
「ケーキ……バレンタインの?」
 確かに、先月の十四日、聖バレンタインの祝日に、私は彼にケーキを贈った。勘のいい彼に気がつかれないように、わざわざ天界にお菓子作りの道具まで持ち込んで、ケーキを作ったのだ。一週間も苦心した甲斐あって美味しくできたそれを、目の前の悪魔はとても喜んでくれた。まあ、その前に、姿を消した私のことを、随分と心配してくれていたようだが……。
「ああ。天使サマが天界で作って、祝福までしてくれたあのケーキの、お返しだ」
「そんな、別にいいのに。あれは、私からお前へのお返しでもあったんだから」
 そう、百年前に、悪魔がくれたプレゼントへの。そして、いつも私に向けてくれる、愛情への、ほんのお礼のつもりだった。
 だが、悪魔は首を振る。
「日本には、バレンタインのお返しをする日というのがあるらしくてな。それが、今日なんだよ」
 気にしていなければ、意識にのぼることのない知識だがな、と悪魔は言う。
 天使も悪魔も、人間に関する知識は全て持っている。しかし、それらを常に意識しているわけではない。それらの知識は、そんなことができるような量ではないのだ。だから、我々は普段はそれらを意識の外に置いておいて、必要に応じて「検索」する。日々更新され蓄積されていく情報の書庫に意識的にアクセスしなければ、必要とする知識を得ることはできない。
 悪魔は、バレンタインに私からケーキを受け取ったことで、バレンタインのお返しをする日がある、という知識を得たのだろう。
「ホワイトデー、とかいうらしい。……お前にぴったりの名前だよな」
 そう言って微笑む悪魔に、胸が温かくなる。そういうお前の中にも、きっと白があるんだよ、という言葉は、そっと飲み込む。全身を黒で統一させた黒髪黒目の悪魔は、きっと悪い冗談だろうと流してしまうだろうから。代わりに、私も彼に微笑みを返す。
「ありがとう。……けれど、今日はこれから仕事が」
「それがな。そのお仕事は、天使サマを独占したい悪魔の魔法で、休みになったんだよ」
 ウィンクをして、悪魔は先ほど取り出した紙片を差し出してくれた。美しい飾り文字と、華麗な花の柄が入ったチケットだ。
「これは……街のホテルの、スイーツバイキングのチケットじゃないか!」
「ご名答」
 この国でも指折りの高級ホテルの、宿泊客以外は予約がほとんど取れないと言われるレストランで、限られた回数しか開催されない、スイーツバイキング。そこでは、日常生活を送る中ではなかなか味わえないような紅茶も飲むことができると聞く。
 思わず大きな声を上げてしまって、私は口元を押さえた。
「ど、どうやって……というのは、悪魔には愚問か」
「それも、ご名答。それと」
 悪魔はさらに何枚かの紙片と、スマートフォンに表示された画面を見せてくれた。どれも、私が日頃、気になりつつも仕事の兼ね合いで行くことのできなかった展示会やコンサート、料理店の限定招待チケットだ。
「ワオ……」
「今日は一日、お前の行きたい所に行って、食べたいものを食べて、やりたいことをやるぞ」
 何なら延長だってできるからな、と愉快そうに笑う悪魔の首に、私は抱きついた。
「お前と一緒なら、どこで何をしても楽しいんだけれど……でも、とても嬉しいよ、ラブ。素敵なお返しを、ありがとう」
「喜んでもらえて何よりだ。だが、礼を言うのはまだ早いぞ」
 悪魔は笑い、私の手を取った。体温のない手だが、私には暖かい。彼が私に向けてくれる心の全てが、暖かい。
「それでは、天使サマの一日を、俺に預けてくださいますか」
 気取った仕草で指にキスをする男に、私も合わせて頷く。
「ああ。私の一日を、お前に預けるよ」
 最高の白い日が、そうして始まった。
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