52話 血の赤の夜

 人間の血液が赤いのは、赤血球を含んでいるからだ。厳密に言えばその中のヘモグロビンが赤いということだが、ヘモグロビンには鉄が含まれている。
 だから、人間の血液は鉄臭い。
 辺りに充満した鉄の臭いと目を刺すような赤色が、俺の仕事の成功を祝っている。新たに飛び散った鉄の赤が、顔と着衣に降りかかる。俺の好きな夜闇の色が、混沌のごとく乱される。
「先生、ご覧になってますかッ? オレの鮮やかな手際……!」
 そう楽しげに叫ぶのは、先程、そっと肩を押してやった人間の男だ。心のうちに、夜闇よりもどす黒い凶物を囲っているのを見つけ、声をかけた。はじめ、ビクビクと落ち着かなげに話を聞いていたのが嘘のように、今は晴れ晴れとしたいい表情をしている。
 地獄に落ちるのがふさわしい、いい表情を。
「ありがとうございます、先生。先生のお陰で」
 男は何度も手を振り下ろす。その下で、それまで聴こえていた、細いうめき声が絶える。こちらに向けられていた緑の瞳から光が消える刹那、そこに祈りが浮かぶのを、俺は見た。
「こんなにいい気分になれて」
 男は息荒く、既に絶命した、魂のない体を弄ぶ。恍惚に歪んだ顔を廃ビルの天井に向け、何度も無意味な叫びを上げる。
 四人だ。
 二時間前に俺が声をかけてから、瞬く間に四人の体が、この室内に転がった。虫さえ殺せないような風態だったのは、演技だったのかとも思えてくる。
「……俺は、籠の扉を開いてやっただけさ」
 俺の言葉を聞いたのかそうでないのか、男はふらふらと立ち上がった。
「先生、オレ……」
「お前は自分で籠から出た。自由にしたらいい」
 男は俺の横を嬉々とすり抜け、闇へ溶けて行った。生きた者は誰もいない、薄暗い部屋の中、赤と鉄の臭いが、ますます濃くなってゆく。
 目を閉じると、愛しい天使の顔が浮かぶ。陰惨な事件を憂う、悲しげな顔が浮かぶ。
 だが、仕事は仕事だ。悪魔も天使も、仕事をしてこその存在だ。ひとつでも多くの黒い魂をご主人サマに届けることは、俺の本能であり、喜びなのだ。
 だから、俺が愛する者のためにできることは。
 身をかがめて、死体を確認する。その白い魂の行方を。死の直前に、彼らの祈りが聞き入れられたのかを。天界の扉が、彼らのために開かれたのかを。
 そのための僅かな時間だけは、作ってやったのだ。
 最後に、見開かれた瞼を指で押さえる。永遠に失われた光が、遙か頭上で天使たちに導かれていくのを感じる。
 指を鳴らし、自身に付着していた生命の名残をなかったことにして、俺は外へ出た。麻痺しかけていた鼻に新鮮な空気を吸い込み、歩き出しながら、スマートフォンを確認する。
『今晩、うちに来て食事でもしないか』
 文面からでも感じ取れる清浄さに、指が止まった。暫くそうして画面を見つめていたが、とても行けそうにはなかった。
『残念ながら今晩は難しそうだ。また今度、誘ってくれ』
 送信して、月のない空を仰ぐ。けたたましいサイレンの音が街を切り裂くのを聴きながら、俺は夜の底へ降りて行った。
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