兄の指

 兄の指は美しい。プロのピアニストである兄の指は鍵盤の上を滑らかに踊るように動き、聴く者の心を奪う旋律を奏でた。到底真似のできない指遣いに、ぼくは幼い頃から見惚れたものだった。
 兄は楽器を演奏しない女性と結婚した。彼女は明るく、いつも兄の側にいた。音楽のことはよくわからないのと彼女が笑うたび、ぼくは目を逸らした。
「兄さん、ここがうまく弾けなくて」
 彼女を連れて兄が帰って来ると、ぼくは必ずピアノの前から兄を呼ぶ。彼女はソファに座って、ぼくら兄弟を眺める。
 ぼくの手に、兄の手が重なる。兄の指がぼくの指を動かす。美しい指が、この時だけはぼくのものだ。
 ぼくは彼女を盗み見る。笑いをこらえる。
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