立ち上がるための椅子

 その椅子に気付いたのは、朝、大切なピアスを片方失くしたことに気づいて、そのことで同棲中の彼氏と喧嘩して、出勤後に些細なミスを連発して、嫌味な上司につつかれて、満員電車で涙を堪えて帰路に着いた夜のことだった。
 こんな街中に椅子なんて。
 周りにはバス停も店もなく、ただひとり用の椅子だけがある。不思議な気がしたけれど、なぜか私の体は自然とそこに落ち着いていた。
 我慢していた涙が溢れ出た。いい歳した大人が外で。でもその道は誰も通らなかったし、椅子も笑ったりしなかった。
 そうだ、この椅子はいつも私を待ってくれていたのだ。
 泣きに泣いて立ち上がる。背もたれを撫でてから振り向かないで歩き出した。
1/1ページ
スキ