夜の羽音

 夜、正座をして目を閉じていると、外を走る車の音や別の部屋のシャワーの音の他に、何かの羽音が聴こえることがある。蚊や蝿のように、小さな虫が近くで立てるものとは違う。かと言って、鳥が羽ばたくときの音でもない。ぶうん、と唸る様な、それでいて柔らかく耳を撫でていく様なその音の正体を知りたくて、私は毎晩、同じ姿勢で目を閉じてみるのだ。
 聴こえた。耳鳴りではない、たしかに私の外から聴こえる。低く、ぶーん、と唸る様な音だ。距離感が掴めない、茫漠とした大きな音だ。
 目を開いて、音の出どころを確かめようと、部屋の中をうろうろ歩いた。しかし音の大きさはどこに立ってみてもあまり変わらず、音自体もまったく変化しなかった。これは、音の出どころがとても遠いか、音の聞こえる範囲がとても広いかのどちらかということだ。
 私は虫取り網と虫籠を携えて、星空の下に出た。人は皆、家の中に閉じこもってしまっているから、この空は私のものだ。鼻歌でも歌いたい気分だったが音を聞き逃してはいけない。私は粛々と、夜の道を歩き始めた。住宅街を抜け、市街地を抜け、郊外を抜け、山道を辿った。全ての生命が寝静まって森閑とする中、私はひとりで歩き続けた。
 やがて、音の出どころへ至った。そこは夜空を満面に映した、鏡の様な湖だった。そこから、何千、何万もの、夜色の翅をもった蝶が飛び出して来ているのだった。蝶の翅は月光にきらめき、星の光でいっぱいの湖面に、更に多くの輝きを灯していた。息を呑む私の目の前で、湖の底から生まれでた蝶たちは、世界へ散らばっていった。見る間にその翅は空気に溶け、その色だけが、ますます夜の闇を深く鮮やかに染めてゆく。
 蝶は、夜に溶け、夜になってゆくのだ。
 私は網も籠も忘れて、その光景を眺め続けていた。私が聴いていたのは、夜の羽音だった。
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