夜から逃げる

 男は、夜から逃げていた。ひとつの国に留まることをせず、昼の間に昼の空を移動することを繰り返して、常に太陽の元にいた。旅人というよりも、それは止まることの出来ない回遊魚といった方が相応しかった。
 私はたまたま、機内で彼と隣の席になったので、その事情の一端を知ることが出来た。それによれば、彼は昔、元いた国で、世にも美しい女と恋に落ちたのだという。固く将来を誓い合った二人だったが、あるとき男は、女の正体を知ってしまった。女はやがて月へ帰らねばならない身の上だったのだ。
 そんな大事なことを隠されていたという怒りとショックとで、男は女を手ひどく振った。しかし女は、男への執着を手放さなかった。
「いつか私のことも月に連れて行くつもりだったのだと、彼女は言いました」
 男は力なく笑った。その視線は空の彼方、雲海の波間に向けられている。
「私はもう彼女のことを愛せなかったので、追い縋る女を振り切って逃げたのです。でも、月から来た女は、夜に乗ってどこにでも現れる。私はろくに眠れなくなり、仕方なくこうして、夜から逃げ続ける日々を送っているのです」
 彼がそこまで話したとき、機内が突然、暗くなった。騒がしくなり始めた乗客たちのざわめきの中、男が「まさか」と呟いたのが聞こえた。
 窓の外に女がいるぞ、と誰かが声を上げた。男の座る窓のすぐ外に、美しくも凄絶な気配を纏った女が浮かんで、こちらを見据えているのが分かった。
 男は計算を誤ったのだ。飛行機は、夜に向かって滑っていく。
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