眠れない夜のために

 眠れない夜を過ごす少女のために作られたピアノ曲がある。作曲家が愛情と情熱の全てを傾けた、その少女の眠りのためだけに、作られた曲だ。
 ゆったりと優しい曲調は、少女だけでなく、あらゆる人を眠りに誘う。作曲家だけは少女のために眠らずに作ったのだが、ひとたび誰かの手によって演奏されると、その旋律を聴いたものは、ことごとく眠りについてしまう。だから、最後まで演奏できた者はいないし、最後まで聴けた者もいない。程なくして、不眠症の治療目的でなしにその曲を披露しようと思う者も、聴こうと思う者も現れなくなった。
 しかし、少女だけは、その曲を最後まで聴きたいと思った。自分のために作曲家が懸命に作ってくれた曲を最後まで聴かずして眠ることが、申し訳なかった。作曲家はそのために作った曲なのだからと言うが、少女は納得しなかった。作ってもらったその曲のオルゴールを毎晩奏でて、なんとか最後まで聴こうとした。けれども、起きていられなかった。当初の願いは達せられていたのだが、彼女の願いは今や違うところにある。眠れずに悩んでいた少女は、眠ってしまうことで悩むようになった。
 彼女を心の底から愛する作曲家はその様子を見て、彼女にピアノを教えることにした。それまで指を鍵盤に置いたことすらなかった少女は、基本から手ほどきを受け、簡単な曲なら弾けるようになった。そうして鍵盤が発する音をすっかり頭に入れる頃には、少女はすっかり成熟した女性になっていた。
 二人は並んでピアノの前に座り、一日中、仲睦まじく音色を弾いた。彼女にはもう、ひとつの曲に固執する理由はなくなっていた。作曲家にも、彼女のためだけに曲を作る必要はなくなっていた。
 二人にはもう、互いがいればそれで充分なのだった。
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