アイスを拭き取るように

 暑い。グラウンドはいつもきれいに整備され、うちの部活が使用するトラックも、余計な石ころ一つ落ちていない。大学が毎年作るパンフレットに誇らしげに載せているだけあって、設備は立派なものだ。ただ、使っている人間が極端に少ないだけで。
 今、トラックの百メートルレーンを走っているのは、リンドウちゃんだけだ。エヤ君は私が来るまでに走って疲れたのか、脇のベンチに座ってリンドウちゃんのタイムを計っているようだ。
「リンドウ先輩、頑張って!」
「応援は要らない、ちゃんとタイムを計れ」
 走り終えたリンドウちゃんはタオルで汗をぬぐいながらスポーツドリンクに手を伸ばし、私に気が付いた。
「ああ、抜け出してこられたのか」
「う、うん。ご、ごめんね、タイム計るの私の役目なのに」
「いない人間にどうやってタイムを計れるって言うんだ」
 リンドウちゃんはごくごくと喉を鳴らし、ペットボトルを置いた。色の薄い、冷たい瞳が、私を射る。
「いつにもまして顔色が悪いぞ。またあいつらに何か言われたのか」
 まあウチには関係ないが、とリンドウちゃんはどかりとベンチに座った。高校の時から使っているという深緑色のジャージが、とても似合っている。
「別に、何も言われてないよ……」
「じゃあ貧血か? 熱中症か? ウチの目の前で倒れられると処理が面倒だから、具合が悪いならさっさと帰りな」
 不覚にも、泣きたくなってしまった。泣きたくないのに勝手に涙がこぼれるのはいつものことだけど、自分が今泣きたいのだと、はっきり分かったのはいつ以来だろう。
「り、リンドウちゃんは優しいね……っ」
「はあ?」
 心底から心外そうに、リンドウちゃんは嫌そうな顔をした。そして私を見て、ぎょっとしたように眉根を寄せた。
「モモ……すっごく気持ち悪い顔してるぞ」
「リンドウ先輩、その言い方は非常に失礼ですよ。モモ先輩、泣くのをこらえてるだけじゃないですか」
 エヤ君がすかさずフォローしてくれるけれど、多分、本当に、今の私は気持ち悪い顔をしているんだろうと思う。確かに、いつも気を付けていても流れてくる涙を、意識的にこらえているのだから、ものすごく変な顔になっているのに違いない。
「え、えへへ……リンドウちゃん、ありがとう」
「何に対する礼なのかも分からん……とりあえず気持ち悪いからあっち向いててくれ」
「う、うん、ごめんね」
 涙が収まるまで待ってから、私はリンドウちゃんと並んでベンチに座り、副部長から親睦会のスケジュールを決めるよう言われたことを話した。聞かれてもいないのに。でも、リンドウちゃんとエヤ君は、他のみんなのように違う話を始めたり、練習を再開したりはせず、口も挟まないで全部聞いてくれた。やっぱり、優しいと思う。
「で?」
 リンドウちゃんは、私が話を終えると開口一番、冷ややかに言った。
「で、それをウチらに聴かせてどうしたいんだ」
「う、あ、えっと……他に話が出来る人がいなくて……ごめん、迷惑だったね。でも聴いてくれてありがとう」
「いや、ウチはただ、休憩してただけだ。そこに、モモが話し始めたに過ぎない」
 リンドウちゃんはそう言うけれど、やろうと思えば私の存在を完璧に無視できるはずなのにそうしないのだから、やっぱり優しいのだ。しかし、次にリンドウちゃんが口にした言葉が、私のそれからの全てを決した。
「モモは、その気になればそんな所からすぐに抜け出せるはずだ。なんで、そうしない」
「え……え?」
 その気になれば抜け出せる? いや、そんなの簡単なことじゃない。地面に落ちたアイスを拭きとってゴミ箱に入れるようにはいかない。私は多分、生まれた時から人より下の存在で、誰かに大事にされるようなこともなく、笑うのも涙をこらえるのも下手くそで、だからずっと、こうなのに決まっている。そうでないことなんて今までになかったし、多分これからもあり得ない。私はいつでも人に笑われて見下されて軽んじられて、……え? 違うの?
「モモは何もできないと思い込んでるだけだ。その方が楽なのかもしれないが、ウチからすればただの馬鹿だ」
「リンドウ先輩、言葉選びましょうよ」
 エヤ君が言うが、でもリンドウちゃんの言う通りだ。私は馬鹿だ。馬鹿だった。
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