ワンルーム・トラベラー

「ぽちぇむてふたこむめすちぇ」
 視線を下げると、声の主と目が合った。どきりとする。黒く艶々した髪を肩に下ろし、髪と同じ色の目を輝かせた少女が、おれを見上げていた。身長がそれほど高くないので一瞬幼く思えるが、恐らく高校生……いや、大学生くらいの年頃だろう。窓枠の高さが大体一六五センチくらいあるようだから、それよりも身長が低い。ロシア人にしては小柄な方だろう。
「ぽちぇむてふたこむめすちぇ」
 先ほどと同じ言葉のようだが、生憎、さっぱり意味が分からない。
「あー、あいどんとあんだすたんど、そーりー」
「いやにずなう」
 ううむ、英語も通じないらしい。
 しかし、目が合った時も思ったが、とても可愛らしい少女だ。目鼻立ちがくっきりしており、くりくりした大きな目を、日本人ではなかなか無いような長い睫毛が縁取っている。派手な顔立ちとも言えるが、変な所から顔を出すおれに興味津々の、好奇心溢れる表情が子どもっぽく、むしろ素朴な印象を受ける。
「あくこたぶぷりっしり」
 少女は首を傾げながら、なおも話しかけて来る。どうやら他の人と違って時間に余裕があるようだ。現地の人と交流するのも旅の楽しみの一つだと思っているおれには、幸いなことだ。
 言葉の壁は大きいが……。
 とりあえず笑顔をと思ってにこにこしていたが、不意に旅行ガイドブックの存在を思い出す。それに、スマホには辞書アプリを入れているではないか。
「ちょ、ちょっと待っててね」
 両手で空中を押す動作をしておいて、おれは急いで室内に取って返し、目当てのものを取り出した。ロシアの旅行ガイドブックの終わりの方に、簡単な会話文が載っているのを探し当てる。それからスマホを起動させようとしたが、電源ボタンが点かないので使うのは諦めた。充電切れだろうか、と思ったが、そう言えば昨日読んだ手順書に、『室内旅行』中は通信機器を使えないと書いてあったのを思い出す。亜空間が部屋を取り囲むため、一切の通信が不能になるのだそうだ。
 仕方ないので旅行ガイドブックだけを持って窓の近くに戻ると、果たして少女はちゃんとそこにいた。
「しゅとてでぃらる」
「ええっと……」
 まずは自己紹介か。
「いや・やぽんすきーとぅーりすと」
 私は日本人の観光客です、という文になっている……筈だ。ロシア語は発音がよく分からない。フリガナの通りに発音してみたが、通じるだろうか。
 しかし案じる必要は無かったようだ。少女は「いやぽんすきー!」と嬉しそうに繰り返した。そして、携えていたポーチの中から板チョコのようなものを取り出して見せてくれた。パッケージにはキリル文字が並んでいるが、よく見ると抹茶の入った茶器のイラストがある。これは、抹茶チョコレートだ。
「抹茶だね。日本のなのかな」
「やぽんにー」
 嬉しそうな少女の笑顔を見ていると、こちらも嬉しくなってくる。他に何か、話せそうなことはないか……。
 おれは結局そのまま一時間ほど、ガイドブック片手に、少女とカタコトの交流を行った。おれのスマホは残念なことに使えない状態だが、少女の物は使えないのだろうか、と思い身振り手振りでスマホを持っていないか聞いてみたが、どうやら上手く伝わらなかったらしく、不思議そうに見つめ返されて終わってしまった。
言葉が完璧に伝わった訳ではなく、むしろおれからの一方的な伝達ばかりだったと思うが、それに対する少女の反応がいちいち愛嬌に溢れていて、時間が経つのを忘れてしまう程だった。しかし、教会の鐘が響き渡った時、少女はそちらに顔を上げて腕時計を確認した。
「や・どうじぇにっつぃ」
「あ、もう行かないとなのかな?」
 一瞬、久しく感じた事のない苦しさが、胸を締め付けた。これは、どういう苦しさだろう。
 だが、今はゆっくり考えている暇はない。お別れの言葉を告げなければ。
 しかし、おれがガイドブックの「さよなら」の項目を探し当てるより先に、少女の明るい声が響いた。
「だゔぇーちぇら!」
「だ、だゔぇーちぇら!」
 おれのおうむ返しににっこりと笑って、少女は車道の方へ去って行った。
 今のは単純な「さよなら」では無かった気がする、と思いながら、ガイドブックを捲る。
「だゔぇーちぇら」は、「また夕方に」という挨拶だった。
4/8ページ
スキ