ワンルーム・トラベラー

 結局、空き地の上に星空が広がる時刻まで延々と憧れの観光地を巡り続けたおれは、心地よい疲労感に包まれながらカーペットの上に寝転んでいた。今日だけでいったい何カ国回っただろう。時差があまり無い国では、夜闇にぼうと現れたおれのことを幽霊だと勘違いさせてしまい、怖がらせてしまうこともあった。普通の旅行では味わえない、そういう独特の感覚が、面白くもあり、また疲労の原因でもあるように思われた。しかし、このくらい慣れればどうということもない。おれには行ってみたい国が、まだまだ沢山あるのだ。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、眠ってしまったらしい。目を覚ました時には、窓の外から朝日が差しこんでいた。
「……やばい、遅刻!」
 慌てて飛び起きて支度しそうになるが、そう言えば一週間の有給を貰っていたことを思い出す。『室内旅行』をひたすら試すためだけに取得した有給だ。有給だけではない、この一週間は部屋から出ずに済むように、食料品の買い溜めもしてあったのだ。
 出かける前に思いだすことが出来てホッとしながら、おれは何気なく窓の外に目を向けた。
そこには、うっすらと雪の積もった地面と荘厳な教会の入口、それに付随するらしい広場と、暖かそうなコートを着込んだ人々の姿があった。
 どう見ても、部屋を取り囲んでいる筈の空き地ではない。
 どういうことだ。眠る前にはしっかり青ボタンを押して、『ポートルーム』の機能を解除しておいた筈だ。
 先ほど、遅刻するかと思った時よりも更に混乱した頭で辺りを見回すと、操作盤が床に転がっているのが目に入った。そこは、ちょうど今朝まで、おれが眠りこけていた場所だ。と、いうことは、考えられる可能性はひとつだ。眠る直前まで手にしていた操作盤の赤ボタンを、眠っている間に押してしまったのに違いない。
 もつれる指を叱咤しながら手順書を開く。昨日読み通した時の記憶を頼りに、ページを繰る。……あった。
『赤ボタンを押しながらイメージした国名、地名の場所へ行くことが出来ます』
 そうか。寝ている間にどこかの国、もしくはどこかの地方の名前にあたる文字をイメージしてしまったのだ。そしてその時、タイミング良く赤ボタンを押したのだろう。
 こんな偶然、なかなか起こることではない。
 だんだん状況を飲み込んで落ち着いてきたおれは、むしろこの偶然をすぐに解除してしまうのは勿体ないかもしれない、という気持ちになってきていた。
 言うなればここは、自分の無意識が選んだ旅行先だ。一体どの国の何という地域なのか今のおれには分からないが、中身の見えない福袋を買うのと同じだ。どこだとしても、まずは存分に楽しもう。
 そう気を取り直して、窓の外を見渡す。動転していた時には気がつかなかったが、どうやら雪が降り積もってから、あまり時間が経っていないようだ。行き交う人々のつけた足跡で、地面が見えてしまっている。
 それもそうか。暦の上ではまだ十月。窓の外の地方はどうやらこの時期に雪が降り始めるらしいが、降ったとしてもそうそう積もるまでには至らないのだろう。
 ここから見える範囲で最も目立つのはおれから見て右側、距離にして数十メートルの位置に建っている教会……見た目から判断するに、恐らく教会……だ。色鮮やかな壁面とアーチ状の出入り口が見える。その他にはおれの視界からギリギリの所に、低い尖塔の突端があり、その上に大きな玉ねぎ型の輝くものが載っているのも見える。全体的に、昔行ったことのある、ロシアの教会に似ているような気がする。
 と言うことは、ここはロシアのどこかなのかもしれない。ただ、建築物の一部だけを見て広いロシアのどの地方なのか判断することは専門家でもないおれには難しいので、ひとまず、ここが何という地域なのか考えるのは後回しにしておこう。
 教会以外で目に入るのは、大きな広場くらいだ。ちょっとした公園程度の大きさがあり、多分、おれの後ろの空間にも広がっている。おれがいるのは広場の中心に近い場所なのだろう。教会とは反対の方向に街路樹があり、その奥から車が走る音が聞こえて来る。
 広場には通勤、通学中らしき人々が忙しそうに行き来しており、たまにおれの方を見ても必要以上に気にせず、行ってしまう人が多かった。『ポートルーム』の存在が周知されているのか、それとも単に気にしているだけの余裕が無いのか。
 そう思ってぼうっと眺めていると、可愛らしい声が耳に飛び込んできた。
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