女の指
それから私と女は、まるで昔からの知り合いか恋人ででもあるかのように連れ立って、近くのホテルへ入った。部屋は一つで十分ではあったがそれぞれの部屋を取り、その後ですぐに私の部屋で落ち合った。女は心なしか、喫茶店の中で話した時より明るい表情をしている。
「それでは、早速……」
女が、左手で自分の右手指を掴んだ。その動作は全くの無造作に行われたが、そうすることが昔からの定めだったと言わんばかりに滑らかだった。
「いや、その前に」
私はその左手を押しとどめ、首を振った。女は、プレゼントの包装を開ける前に取り上げられた子供のように、ハッと私を見た。
「貴女から指を貰い受ける前に、私の指の話もしておかなくてはいけないと思いまして」
「貴方の指」
不思議そうに腕を下した女に、私は初めて自分の両手を開いて見せた。
「私の指は、昔務めていた職場で切り落とされてしまいましてね。ほら、この右手の薬指と左手の小指です」
ちょっと見ただけでは気付かれないような場所であり、他の長い指に隠れて普段は注意を受けることもないが、一度気付いてしまえばそれは否応なく目に飛び込んでくる、紛れもない空隙だった。その事故のせいで私は職を変える羽目になったのだが、それは今、問題ではない。
「私が人の指だけに関心を抱くようになったのは、こういう身体になってしまったからかもしれません。自分が失ってしまったものを他の人間は全く意識せずに使い、いや使うだけならまだしも、意味なくプラプラさせ持て余し、あまつさえ私の前に持ってきてヒラヒラ動かしたりするのです。私は人の指ばかり見て生きてきました。今では、指を見れば仕事を言い当てられるくらいです」
女は身じろぎもせずに私の話を聞いている。部屋の窓から差し込んできた真っ赤な光が、私の失われた薬指と小指を浮かび上がらせた。
「だから、貴女の理想の指をいただけることが幸せでならない。分かりますね、私の欲しい指が……」
女はこくりと素直に頷いて、それから予想もしていなかった動きをした。その理想の指で、私が前に突き出していた掌を撫でたのだった。それは丁寧な動作で、私の欠けた薬指と小指の肉の盛り上がりを、何か壊れ物でも扱うように静かに撫でたのだった。私にはもう、何も言うことは無かった。ただ黙って、女のするがままに任せるだけだ。
「では、この指を、貴方に差し上げます」
女はそう言って、再び左手で右手の薬指を摘まんだ。そして、きゅいっと捻った。指は清涼菓子のあっけなさで付け根から外れ、コロリと女の左掌に転がった。
「これで、一つ」
女は呟きつつ、今度は右手の人差し指で、左手の小指を摘まんだ。そちらも先と同様簡単に外れ、女の掌中には二つの指が並んだ。二つの、理想の肉片……。喫茶店で見た時には、遥か遠く、手の届くはずのない場所に脈動していた理想の指。
女はちょっとの間、その指を残った指で転がしてみたり、突いたり、ホテルの白けた蛍光灯の下に翳してみたりしていたが、唐突に涙を一筋、流した。そして、衝動に駆られたかのような激しさで一瞬、二つの指に口づけをした。
「どうぞ。これでもう、この指は貴方のものです」
女は言い、私の手の中にその二つを握らせた。私のものとなったそれらは、まだ生きていることを報告するように朗らかな温かさで、私の手を軽く弾いた。
「どうか……どうか大切にしてください」
「はい」
頭を下げて、再び上げた時、女の眼もとにも頬にも、既に涙も涙の跡も無かった。ここに来た時に感じた明るい感じも、今は失われていた。女はなんだか、冷たい一陣の風に吹かれて、孤独に立ち尽くしているようだった。
「それでは、私はもう行きます」
「ああ、……はい」
女のきっぱりとした態度は、私が並んで出ていくのを許すものではなかった。それで私は、女が立ち去る音を聞き、窓から顔を出して、女がホテルから出ていく後姿を見送ってから、部屋を出た。
新しい指に慣れるまでには、それなりに時間が掛かることだろう。だが、この理想の指なら大丈夫だという確信もある。駅のホームへ向かうエスカレーターに乗り、しげしげと自分の手を眺めながら、私はそんな実際的なことを考えていた。男の武骨な手の甲から、あたかも何かの細工のようなスラリとした指が伸びているのは何だか奇妙な眺めだし、付けたばかりの指の根元がまだぎこちないけれど、それも使ううちに馴染んでくるはずである。とにかく、今まで感じたことのない安らぎが、私を包んでいるのだった。
ふわふわとした、浮足立った高揚感の中でふと、新しい指の味を試してみようかと思った。見れば見るほど、突き抜ける甘さを想像させる指である。だが、先ほどの女の白い唇が、どうしても目の中から出ていかない。それで、とうとうやめにしてしまった。
駅のホームに着くと、なんだか人々がざわついているようだった。どうも、誰かが飛び込んだらしい。耳に入る話し声から察するに、飛び込んだのは若い女性のようだった。既に到着していた救急隊が、担架を担いで私のすぐ横を通った。エレベーターの無い駅のことで、急いで下りエスカレーターに乗り込んでいく。その拍子に、担架が大きく揺れ、運ばれていた女性の両手が、だらりとはみ出した。
その白い両手には、右薬指と、左小指が無いように思われた。
「それでは、早速……」
女が、左手で自分の右手指を掴んだ。その動作は全くの無造作に行われたが、そうすることが昔からの定めだったと言わんばかりに滑らかだった。
「いや、その前に」
私はその左手を押しとどめ、首を振った。女は、プレゼントの包装を開ける前に取り上げられた子供のように、ハッと私を見た。
「貴女から指を貰い受ける前に、私の指の話もしておかなくてはいけないと思いまして」
「貴方の指」
不思議そうに腕を下した女に、私は初めて自分の両手を開いて見せた。
「私の指は、昔務めていた職場で切り落とされてしまいましてね。ほら、この右手の薬指と左手の小指です」
ちょっと見ただけでは気付かれないような場所であり、他の長い指に隠れて普段は注意を受けることもないが、一度気付いてしまえばそれは否応なく目に飛び込んでくる、紛れもない空隙だった。その事故のせいで私は職を変える羽目になったのだが、それは今、問題ではない。
「私が人の指だけに関心を抱くようになったのは、こういう身体になってしまったからかもしれません。自分が失ってしまったものを他の人間は全く意識せずに使い、いや使うだけならまだしも、意味なくプラプラさせ持て余し、あまつさえ私の前に持ってきてヒラヒラ動かしたりするのです。私は人の指ばかり見て生きてきました。今では、指を見れば仕事を言い当てられるくらいです」
女は身じろぎもせずに私の話を聞いている。部屋の窓から差し込んできた真っ赤な光が、私の失われた薬指と小指を浮かび上がらせた。
「だから、貴女の理想の指をいただけることが幸せでならない。分かりますね、私の欲しい指が……」
女はこくりと素直に頷いて、それから予想もしていなかった動きをした。その理想の指で、私が前に突き出していた掌を撫でたのだった。それは丁寧な動作で、私の欠けた薬指と小指の肉の盛り上がりを、何か壊れ物でも扱うように静かに撫でたのだった。私にはもう、何も言うことは無かった。ただ黙って、女のするがままに任せるだけだ。
「では、この指を、貴方に差し上げます」
女はそう言って、再び左手で右手の薬指を摘まんだ。そして、きゅいっと捻った。指は清涼菓子のあっけなさで付け根から外れ、コロリと女の左掌に転がった。
「これで、一つ」
女は呟きつつ、今度は右手の人差し指で、左手の小指を摘まんだ。そちらも先と同様簡単に外れ、女の掌中には二つの指が並んだ。二つの、理想の肉片……。喫茶店で見た時には、遥か遠く、手の届くはずのない場所に脈動していた理想の指。
女はちょっとの間、その指を残った指で転がしてみたり、突いたり、ホテルの白けた蛍光灯の下に翳してみたりしていたが、唐突に涙を一筋、流した。そして、衝動に駆られたかのような激しさで一瞬、二つの指に口づけをした。
「どうぞ。これでもう、この指は貴方のものです」
女は言い、私の手の中にその二つを握らせた。私のものとなったそれらは、まだ生きていることを報告するように朗らかな温かさで、私の手を軽く弾いた。
「どうか……どうか大切にしてください」
「はい」
頭を下げて、再び上げた時、女の眼もとにも頬にも、既に涙も涙の跡も無かった。ここに来た時に感じた明るい感じも、今は失われていた。女はなんだか、冷たい一陣の風に吹かれて、孤独に立ち尽くしているようだった。
「それでは、私はもう行きます」
「ああ、……はい」
女のきっぱりとした態度は、私が並んで出ていくのを許すものではなかった。それで私は、女が立ち去る音を聞き、窓から顔を出して、女がホテルから出ていく後姿を見送ってから、部屋を出た。
新しい指に慣れるまでには、それなりに時間が掛かることだろう。だが、この理想の指なら大丈夫だという確信もある。駅のホームへ向かうエスカレーターに乗り、しげしげと自分の手を眺めながら、私はそんな実際的なことを考えていた。男の武骨な手の甲から、あたかも何かの細工のようなスラリとした指が伸びているのは何だか奇妙な眺めだし、付けたばかりの指の根元がまだぎこちないけれど、それも使ううちに馴染んでくるはずである。とにかく、今まで感じたことのない安らぎが、私を包んでいるのだった。
ふわふわとした、浮足立った高揚感の中でふと、新しい指の味を試してみようかと思った。見れば見るほど、突き抜ける甘さを想像させる指である。だが、先ほどの女の白い唇が、どうしても目の中から出ていかない。それで、とうとうやめにしてしまった。
駅のホームに着くと、なんだか人々がざわついているようだった。どうも、誰かが飛び込んだらしい。耳に入る話し声から察するに、飛び込んだのは若い女性のようだった。既に到着していた救急隊が、担架を担いで私のすぐ横を通った。エレベーターの無い駅のことで、急いで下りエスカレーターに乗り込んでいく。その拍子に、担架が大きく揺れ、運ばれていた女性の両手が、だらりとはみ出した。
その白い両手には、右薬指と、左小指が無いように思われた。
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