女の指

 その女を一目見た時から、私は彼女の指の味を想像していた。青く澄み切ったサイダーのように爽やかな、甘い味。女は物憂げに外を眺めていたが、やがて私の視線に気づいて顔を上げた。涼しげな瞳が一瞬、円く見開かれる。
 何の変哲もない、静かな音楽の流れる喫茶店だった。私は営業先から会社へ戻る途上でたまたまこの店を見つけ、少し休憩するために立ち寄ったのだった。そろそろ冬も終わろうかという時節であり、春めいた報せを耳にすることも多くなってはきたが、まだまだ外は寒い。顧客の印象を少しでも良くするために春物の衣服を着てきたのだが、外を歩く内にすっかり体が冷えてしまっていた。温かい珈琲を一杯頼み、携帯電話の着信履歴を確認し、さて窓の外の景色でも眺めて待とうと思って視線を向けた先に、その女が座っていたのだ。
 女は、今時にしては珍しいくらいに地味な格好をしていた。まだ二十代半ばであろうに、腕から脚からすっぽりと覆ってしまうような茶色い長袖のワンピースを着て、生まれてから一度も染めたことのないような黒い長髪を、無造作に背中に垂らしていた。素っ気ない薄化粧を施した顔は案外整っていたが、若い女性らしい明るい感じは全くしなかった。そうして、ティーカップの把手に指を掛けたまま、物思いに耽るように、窓の外を見つめていた。
 しかし以上のことは、後で改めて気づいたものであって、私が最初から女の全貌を子細に眺めていたわけではない。私の注意は始めから、女の指にのみ注がれていたのである。
 女の指は、先に述べたように軽くティーカップに添えられていた。私のいる位置からは五指が見えるわけではなかったが、その人差し指と親指の細さと角度に、私は深く感じ入った。その指を認識すると同時に、その味が喉の奥から染み出てくるような気がした。私はその滑らかですべすべした白い肉を口に含み、ゆっくりと舌で嘗め尽くしたいと思った。まったく、ここまで私の理想通りの形をした指に出逢えるとは! 
知らないうちに、口の中で舌が動いていたらしい。唇の端から溢れそうになった涎を、私は慌てて拭った。注文した珈琲が運ばれてきたので殆ど無意識の内にそれを口の中に流し込み、流し込んだ瞬間、口から吹き出しそうになった。想像の指の甘さに実在の苦みが押し寄せてきて、吐き気さえ感じた。紙ナプキンを口に当てて息を整えている時に、女がこちらを向いた。
 いつから気づかれていたのだろうか。
 私は急に、運ばれてきたばかりの珈琲を置いて、さっさといなくなりたい衝動に駆られた。そもそも、私が欲していたのは指それのみであり、その所有主である女自体には何の興味も無いのである。いやそれ以上に、指が誰かの所有物であることそれ自体が、憎悪の対象ともなり得る位であった。だから、私がその指を注視していることを指に気付かれるのならともかく、その持ち主に気付かれてしまうのは、不都合でしかないのだった。
 指は思考しない。指は選択しない。だがしかし、女はどうか。思考し活動し呼吸する肉体であるところの女は、私の視線から逃れるために店を出ることも、私の不躾に対して文句を言うことも出来るのだ。……私はすぐに指から……女から……目を逸らした。女の向こうにある硝子窓のその向こう、空の具合でも気になったのだというような素振りで……。私の視線は自分の前にある、湯気を立てるカップに固定された。平穏な、あるべき場所に収まった。同時に女の指は視界から失せた訳だが、それは依然として私の頭の中の視覚分野を犯し続けているのだった。先に行くにつれて細く、赤みを増していく指……。適度な弾力で、私の触覚を押し返す指の腹……。窓の外から漏れる午後の光に照らされて、遠慮がちに、しかし輝かんばかりに艶めく、桃色の爪……。
 実際には女はすぐにその席から立つことも無く、すぐに私に声を掛けることもなかったのだが、私の頭の中で女の指は、何よりも現実感を伴った美しい夢想として発展していく。私の角ばった実用性に特化したような指とは違う、女のそれは柔らかく、決して何物をも拒否したりなどしない。すべすべした皮膚は透き通るようで、それでいてしっかりとした実感を伴うのである。実感? いや、それは違う……それは実感ではない。私の脳内に結ばれた像でしかないのだ……。
 私が珈琲の中に沈む指を夢想し始めた時、女がいた方から、椅子の引かれる音がした。他に客はいなかったように思うので、とうとう女は帰るらしい。相変わらず幻の指を弄びながら、私はもう一つの目でそう思った。実際に存在する理想の指に未練がない訳ではなかったが、一度目にした今となっては、頭の中で動かすことも、味わうことも可能なのだ。それが目の前に存在するかどうかは、問題ではない……。
 そう考えていた時だった。勘定を済ませたらしい女の足音が、私の座る机の前で止まった。私は一瞬、耳が詰まったかと思った。しかしそれはどうやら、自分の血流が激しさを増したために起こった一種の耳鳴りのせいだと、これまた一瞬で看破した。その後で、ようやく頭の方が目まぐるしく働き始めた。やはり、じっと見ていたことを怒っているのだろうか。それとも、不審に思われたのだろうか。そのどちらとも考えられるし、もしかすると、両方かもしれない。幻の指は瞬く間に霧消し、私のうっとりとした気分も、急に現実味の無いもののように思われ始めた。どうすべきなのか分からなかったが、とにかく女の意図だけでも確認しなくてはいけない。私は思い切って顔を上げた。
 女は、私を見ていた。……いや、私を見ていながら、私を見てはいなかった。その視線は私を捉えているにも関わらず、どこか茫漠とした印象を受ける。より有体に言うなら、ぼんやりしているようだった。私は咄嗟に言うべき言葉が思いつかず、ただ女の顔を見つめながら口を開いたり閉じたりした。女も、自分が何と切り出せばいいのか測りかねているようだ。
「あの……」
 ようやく女が、遠慮がちにではあるが口を開いた。
「その……何処かでお会いしたことが……」
 私はホッとすると同時に、なぜか舌打ちをしたい気持ちになった。この女は、私が自分の指を見ていたということを想像もできないのだ。私の真意を全く理解できていないのだ。ただ、ひょっとすると顔も名前も思い出せないが知り合いであったのかもしれない、という小さな可能性に動かされているだけなのだ。
 ……不審人物扱いされるかもしれないという危惧は徒労に終わった訳だが、私の中には釈然としない苛々が燻っている。
「いえ、ただ、向こうの窓を眺めていただけですよ。……貴女を見ていた訳じゃない」
 女はそれでも尚、ぼんやりとした視線を私に注ぎ、ちょっと首を傾げた。
「そうですか……それは失礼いたしました」
 私は自分の言葉の冷気が女に少しでもダメージを与えられるのではないかと淡い期待を持っていたのだが……そんな気配はなかった。ただ、その顔の表面には表れない些細な動きが、女の右手の指に表われたことには、すぐに気づいた。薬指の、僅かな痙攣。そこに、女の心の全てが詰まっているように思われた。
「指……」
「え?」
 思わず口に出してしまってから、私は慌てて失態を隠そうとした。女の顔も見ず、すっかり冷めてしまった珈琲も顧みず、立ちあがり、女より先に会計を済まし、早足で店を出ようとした……が、女の方が速かった。女は席から立ちあがった私を見て、すかさず押しとどめたのだ。
「放してください……私は帰ります」
 女の力など、何でもない。やろうと思えば押しのけて行くことも出来た。そうしなかったのはひとえに、女の指の感触のせいだった。ジャケットとシャツを間に挟んでいるにも関わらず、それはつぶさに、私の腕に伝わってきた。細い、五つに別れた肉の管……それが、衣服に包まれた私の肉を掴んでいる。いや、掴むなんて大したものではない。そっと、添えるように凭れ掛かっていると言った方が相応しい。
 女はその五指に、ほんの少しだけ力を入れて、私を椅子に座らせてしまった。私は仕方なく座り直し、女を見上げた。女は先ほどよりもしっかりとした表情をしていた。それは、自分の行動に驚いているようにも見えた。
「……あの……すみません」
「全くですよ。私は何もしていません。なのに何故、見も知らない貴女に引き留められねばいかんのです」
「それは、その……」
 すみません、と再度口の中で呟いて、女は私の向かいの席へ坐った。
「ちょっと、困りますよ……」
「すみません」
 実際、その時の私にはもう社に帰る以外の用事は無かったし、それが終わればもう帰るだけで良かった。だから困ることなど何一つなかったし、むしろ女の指をじっくり眺める絶好の機会だと思った。私の言葉は、一片の真実をも含んでいやしなかったのだ。
 しかし女は申し訳なさそうに頭を下げた。両手はテーブルの上にきちんと揃えられていて、女の誠意を雄弁に物語っている。
「ええっと……貴方は、窓の外の何をご覧になっていたのでしょうか」
「そんなことを聞きたいのですか」
「はい」
 私にはさっぱり理解できない質問だったが、ひょっとすると、私への疑いは完全に晴れた訳ではなかったのかもしれない。となると、私の方でもそれ相応の答えを提供しなくてはいけないだろう。私は一瞬考えて、それから答えた。
「通行人を見ていただけですよ。マンウォッチング、人間観察、というやつです」
「通行人……ですか」
 女は納得いかないように眉をひそめた。
「先ほどから、あそこは誰も通っていませんが……」
「…………」
 失敗したな、ということはすぐに分かった。そもそも女は最初から、私の嘘など信じていなかったのだろう。その上で、わざと乗ったフリをして、私が尻尾を出すのを待っていたのだ。
「……嘘をついている、と仰いたいので?」
「いえ、そんな……。そういう訳ではないのです」
 女は、そこで初めて感情を顔に出した。困惑、そして迷い。右手を口元に当て、女は自分の中の答えを引っ張り出そうとしているようだ。私の視線は、その右手指に引き寄せられた。だがしかし、今は悠長に見とれている場合ではない。
「知りたいのです、私は……貴方が、私の何を、熱心に見ていたのか」
 急に、吐き出すように発された言葉に、私は虚を突かれた。まさか、そう来るとは思っていなかった。警察にでも何にでも突き出される覚悟をしかけていたところだったのだが、その必要は無かったのだろうか。
 女は、思ったより大きな声を出してしまったと思ったのか、口元を両手で覆った。
「すみません……」
「いえ、……」
 女が頭を下げるのにつられそうになって、私は慌てて顔を上げた。しかし、心臓は跳ね上がらんばかりに動いていた。警察に突き出される心配はなくなったかもしれないとは言え、女は私が女を見ていたということに……いや、女の何かを見ていたということに……気付いていたというのだ。顔中の毛穴から汗が噴き出すような気がした。
「先ほども申し上げましたが、私は窓の外を見ていたのです。通行人がいなかったと仰いましたが、貴女が目を離したちょっとした隙に通っていたかもしれないではありませんか。ねえ、そうじゃないでしょうか」
 私の言葉に、女は沈黙した。しかし、何一つ納得出来ていないようなのは、目の動きですぐに分かった。
「私は、自分が見られていたとは思いません。私なんかを見ても、仕方のないことですから。でも、貴方が私の体のどこかを見ていたことくらい、すぐに分かりました。それは、例え窓の反射光が無かったとしても同じことです」
 私は思わず、先ほどまで女が座っていた窓際へと目を向けてしまった。成程確かに、微かに私の顔が映っている。そして、そこに目を向けてしまったということそれ自体が、女の言葉を何よりも肯定するのだということに気付いた。
再び向き合った女は、相変わらずの表情で、私の肩越しに何かを見ているようだった。先ほど見せた困惑の表情は既に失せ、そこに感情の動きは見受けられない。
「分かりました。……分かりました」
 私は、それまで張っていた肩肘を弛緩させ、浮かしかけていた腰を沈めた。
「言い逃れは出来ないようですから、正直に申し上げます」
テーブルの上の女の指を見ながら、私は言った。
「指なんです」
「指」
「ええ。私は貴女の、指を見ていたのです」
「…………」
 女は、さっきよりは少し程度の落ちた、それでも確かな戸惑いを露にした。顔を動かした拍子に、長い黒髪が顔の右半分を覆った。
「おかしいとお思いでしょう。分かります。私だって、人の指ばかりに興味が向くのはおかしなことだと思っているのですから。しかし貴女、考えてもみなさい。人間の指ほど、不可思議な形状をしたものはありませんよ。丸っこい肉の塊から突き出た、ひょろりとした指。ほかの動物を御覧なさい、ここまで詳細な動きをすることの出来る指を持ち合わせている動物は、そうそういません。だいたいは、木登りに必要だったり、獲物をしとめるために使ったり……そういう限定した使い方しかされません。しかし私たちの指はどうです。その気になれば楽器を演奏したり機械を操ったり、高度な動きを容易く可能にしてしまう。そしてそれは、手の指以外では殆ど期待できない機能なんですよ。もちろん極まれに、手の指を失ったり先天的に持ち合わせていなかったりする人間が、訓練して足の指や口でそれらの機能を代用する場合もありますが、それは結局のところ、人間の手指というものの機能性を改めて証明しているに過ぎないのではないでしょうか」
 私は、先ほどまでとは打って変わって熱情的にまくしたてた。それは半ば無意識のうちに、日ごろ抱いてきた指という器官に対する執着を、誰かに伝えたいと思ったためかもしれなかった。そう、私は常に指に執着してきた。指という不可思議なものに傾倒してきた。だが、私には常識というものも備わっている。だからこそ、今まで誰にも、この秘めた思いを打ち明けるなどということはしてこなかったのである。
 しかし、今は少なくとも、私には話して良い理由があった。話して良いという許可があった。目の前の女に反応が殆ど見受けられなくとも、私には話す義務、いや権利があったのだ。
「貴女の指は、美しい」
 女はそこで初めて、私を見た。ハッとしたように目を見開き、しかし身じろぎ一つしなかった。ただ、困惑とも違う、強い感情の揺れが、そこにはあった。私はいちいちそんなことに頓着してはいられず、舌に任せて言葉を続けた。
「美しいだけではない、理想的でさえある。分かりますか。貴女の指は、私が常々探し求めていた指の理想そのものなんです。私は商売柄、様々な人と出会います。そしてその度に、その人間の指を見るのです。何故なら、指に興味があるからです。そう、指……美しい理想の指! 私はずっと探して来ました。いつもいかなる時も人の指ばかり見て生きてきました。それが、ようやく今日、探し求めていた理想の指、実在する理想の指に出会えたのですよ。しかし、私にも人並みに常識というものがあるのです。ですから、いくら理想の指だとは言え、そのためだけに貴女を追い回したり話しかけたりなんて出来る筈もないのです。分かりますか」
「ええ、……はい」
 女は遠慮がちに頷いた。
「つまり貴方は、その……私の指を、理想的な美しい指だと、そう仰るんですね」
「その通りです」
 私は深く頷いた。
 次は、どこがどのように美しいかを説明するべきだろう。
 そう思い、残していたお冷を呷り再び口を開こうとしたとき、女が思い切ったように声を出した。
「でしたら、その理想と仰るこの指を……貰っていただく訳には参りませんでしょうか」
「え?」
 私は、自分の耳を疑った。
 この指を、くれるだって? この美しい指を。理想の指を?
「しかし、……しかし、それでは貴方はどうするんです。指が無ければ、その……困るでしょう」
「そうでしょうが、……今の私には、もう必要のないものなのです」
「しかし、」
 私は否定の言葉を口にしながら、抗いがたい誘惑に負けそうだった。目の前の指が私のものとなるのだとしたら、それは指にとっても喜ばしいことなのではないか。現に、持ち主である女が不要だと言うのだ。それを、渇望する私がもらい受けたとて何の不都合があるだろうか。
「良いのです。本当に、私の指が美しいのであれば、それを美しいと言ってくださる貴方に差し上げた方が、どんなに良いか知れません」
「しかし」
「私が良いと言うのですから」
 私も真剣なら、女も真剣だった。私の耳はもう、喫茶店に流れていた筈のピアノ曲さえ聴き取れなくなっていた。ただひたすらに、女の言葉だけが、繰り返し響き渡っている。
 貴方に差し上げた方が……差し上げた方が……。
「どうでしょうか。私には、もうあまり時間がないのです」
 女は、ぐいと身を乗り出してくる。微かな髪の香りがしたが、それよりも距離を詰めてきた指に、心奪われる。
「この、指を」
 言いながら差し出された女の右手を、私は半ば無意識で握りしめた。
「分かりました。では、貰い受けましょう」
 自分でも自分の声の薄ら寒さにぞくりとしたが、女は何とも思わなかったらしい。やっと体温を手に入れたかのように唇をほころばせ、良かった、ありがとうございます、と笑った。私はそれを見ながら、笑顔とはこういう時にするものだったかとぼんやりと思った。
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