光芒

 それから数ヶ月、あの夜のことなど夢だったかのように時間が流れていった。しかし、本当に夢だったのだろうか。あんな……頭を胸を腹の中を掻き回されるような怖気と、対になった安堵と……懐かしさが。
 俺はその晩、とうとう耐えきれなくなって再び古寺を訪ねた。記憶にあるのと変わらずぼろぼろの寺の中に踏み入ると、ひどい臭いがした。
「これは……」
 知っている臭いだ。戦場で何度も吸った空気だ。
 覚悟して覗いた室内には、女と包帯男の骸が横たわっていた。夢ではなかった。
「うっ……。そういえば不治の病だとか……」
 恐れていた記憶の氾濫は起きなかった。だが、それよりも酷い虚無感が俺を襲った。悲しさと虚しさと、理由の分からない「間に合わなかった」という感覚。そして、もう彼らと話せないのだという後悔が喉に迫り上がってくる。
 せめてもと、俺は女の体を抱えて墓地に埋めた。夜の闇の中、前にもこの女を抱えたことがあるという確信が芽生えた。包帯男の方は抱えた途端崩れ去りそうだったので断念して、女だけを弔った。本当は二人揃って埋めてやりたかったが、仕方ない。
 なかなか離れられずにぐずぐずしていたのだが、もう何をすることもできない。俺はこれから一生、胸に空いた穴を埋めることが出来ないのだろう。忘れてしまった記憶を思い出す最後のよすがを、きっとこれで永劫に失ったのだ。
 でも、これでいいんだ。俺には、失ってしまった記憶と共に封印した恐怖と向き合うだけの器量なんてないんだ。
 女を埋めた土の盛り上がりに、背を向けた時だった。

「んええええええええ」

 赤ん坊の泣き声が響いた。
 ちょうどぽつぽつと降り出した雨と、轟く雷の音にも負けず、元気よく響いた。背後から。
 真夜中の墓地だぞ。
 慌てて振り返ると、今背を向けたばかりの土の盛り上がりが、むくむくと動いた。
「んえええええっ……ええええええん」
 ぼこ、と土から飛び出した。小さな小さな赤ん坊の手が。
 呆気に取られて見ている間に、赤ん坊の全身が現れ、泣きながらこちらに向かってきた。よろめきながら、よたよたと、それでも確実に俺の方へ。
「そんな……死体から産まれたってのか」
 あまりにもそれは、理に反している。
 後退りながら考えた。死体から生まれた赤ん坊なんて、化け物に決まっている。そんなものは俺の手には負えない。
「こんな化け物、生かしておいたら……」
 脳裏に、青い炎を纏った骸骨の化け物達が思い浮かんだ。そうだ、俺はああいう化け物から必死で逃げて……。
「生かしておいたら、どんな災いがあるか知れない。いっそ……!」
 赤ん坊を抱き上げると、その軽さに目眩がした。
「うえええええ! うえええええ!」
 生まれたばかりでも、自分の身に危機が迫っていることを肌で感じるのだろう。赤ん坊は恐ろしげに身を縮め、いよいよ火がついたように泣き続ける。
 俺は、その小さな体を叩きつけるのにうってつけの墓石に目をやった。ここの角に……。
 だが、赤ん坊だぞ?
 空中に小さな体を抱え上げたまま、俺は固まった。
 本当にやるのか? 産まれたばかりの命を、俺の手で?
 確かにこいつは死体から産まれた。だが、それが何だと言うんだ。こいつは赤ん坊だ。産まれたてで弱くて誰かの庇護を必要としていて、そして……
 未来がある。
 
「わしの子供が生きて行く世界を……」

 赤い桜の下、着流しの男が笑ってそう言ったのを思い出した。
 俺と似たような白髪で、包帯男くらいの長身で、目玉がちょうどこの赤ん坊みたいに大きくて、いつも静かに微笑んで、そしてよく泣く、そういう男だった。
「……そうだな、そうだよな」
 恐怖のあまりか泣くことも忘れた様子の赤ん坊を、そっと抱きしめた。土と雨の匂い。
 未来の匂いだ。
「ごめんな。お前の未来を、俺が潰すなんて許されるわけないよな」
「う……あうう」
 赤ん坊はようやくホッとしたらしく、その小さな手で俺の左耳に触れた。

 まだ完全に、あの時のことを思い出せたわけではない。だが、近いうちに全て、思い出せそうな気がする。この赤ん坊を育てていれば、きっとまたすぐ……俺が忘れた大切な誰かと、会えるような。
 そんな気が。

 雨が晴れた。
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