ある引きこもりの推理2 紫陽花と友情

 数週間後、私は、近辺で適当に採取した紫陽花の花を詰めたビニール袋を手に、T大学を訪れた。有在は予定通りシンポジウムに参加している筈だ。昨日には、贔教授に、新たな研究室長候補への差し入れとしてケーキなどをプレゼントしてはどうかという話もしてある。ついでにその時、有在は体調が悪くなると甘いものを摂取したがるのだという嘘もついておいた。つまり、有在が体調不良でシンポジウムに参加できないと聞いた贔教授が、思路のシナリオ通りに行動するのは、間違いないのである。
 T大学の門前で、私は携帯電話を取り出した。案の定、電話に出た贔教授は戸惑っている様子だ。ケーキを買ってきたものの有在がいなかったため、彼女の研究室に置いてきたと言う。私は有在の体調は治り、彼女が予定通りシンポジウムに参加していると話した。それから、さりげなく尋ねた。
 ちなみに、もう一人の研究室長候補への差し入れは喜んでもらえましたか?
 注意深い人間が聴いていれば、どうしてそんな質問を、と訝しまれるだろうことは分かっている。だが、江枝氏がまだそれを口にしていないことを確認しなくてはならなかった。贔教授によると、江枝氏はまだ、大学へ来ていないらしい。わざわざ江枝氏の行動パターンを調べておいた甲斐があったというものだ。
 電話を切って、私は大学構内へ入った。江枝氏宛のケーキが置いてあるという部屋へ向かう。暫くの間、離れた所からその部屋を観察して中にいる人間の数を把握してから、最後の人間が部屋から出て来るのを見計らって、こっそりと入る。四角い机の上に、ケーキを入れる紙箱が置いてあった。
 隠し持っていた袋から紫陽花の花を取り出そうとした、その時。
 扉の周辺に人影が見当たらないことを確認しておいた筈だったのに、突然、扉が開いて数人の男たちが雪崩れ込んできた。狼狽して振り向くと、その内の一人に見覚えがあることに気づいた。木村佳句かく――大学時代の後輩だ。私と同じく柔道部で、共に汗を流した記憶は今でも残っている。その頃はいつも優しげに笑っていた木村だが、今は険しい顔で私の手元を凝視している。
「先輩、その手を置いてください」
 私は手を置かず、その代り抵抗の意思が無いことを示すために肩をすくめて見せた。いったいどうしてお前がここにいるんだ、という私の問いには答えず、木村は厳しく言う。
「先輩が紫陽花を使って人に害を与えようとしていることは調べがついているんです。おとなしく、従ってください」
 予想もしていなかった人物に、しようとしていたことを見事なまでに言い当てられて、私は思わず後ずさる。それを逃亡の予兆と見たか、木村の傍に控えていた屈強な男たちが、私の両腕をがっしりと取り押さえた。逃げられない。
 訳が分からないが、私の目論見は失敗に終わったらしい。しかし、これから私はどうなるのだろう。木村はいったい、どうして私の行動を見透かしたのだろう。いやいやそれより、なぜ木村なのだ。こいつとは大学を卒業してから殆ど交友などしていなかった筈だ。仕事で関わったことすら無い。
「先輩、詳しい話は署で聴きます。……と言っても、もう殆ど聴いてしまっているんですがね……」
 先ほどまでの厳しさとは打って変わって、悲しげな調子で木村は言う。『署』、ということはつまり。つまり……。それに、『もう殆ど聴いてしまっている』とは、どういうことだ? 私はこの計画のことを誰にも話していない。知っているのは、それこそ――。
 木村は懐から取り出した手帳の内側を私に見せて、それから携帯電話で誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし、シロか。無事に未遂で取り押さえた。……うん、そうだ。代わるか?」
 シロ。
 その単語を聞いた途端、脳天に重い衝撃を受けたような気がした。私の知る限り、『シロ』という名前の人間は一人しかいない。もちろん、他にそういう名前の人間がいる可能性は大きにあるが、ここで登場する『シロ』は、宮名思路ただ一人に決まっている。思路……彼女が、木村と通じていたと言うのか。
「先輩、思路が話したいと」
 木村に手渡された携帯電話を耳に当て、私は目を閉じた。心地良い、思路の声が脳に響く。
「やってしまったらしいね。いや、やろうとしてしまった、か。君は忘れてしまったかもしれないが、そこにいる木村刑事を私に紹介してくれたのは、誰あろう君なのだよ。君が大学生だった頃、中学生で不登校だった私に、父が紹介してくれたのが君だ。その君が、最初に連れて来てくれたのが、木村刑事だ。思い出したかな。いや、もしかしたら君のことだ、最初からちゃんと覚えているのかもしれないね。……懐かしいな」
 そう、その通りだ。私が大学三年生だった頃、ゼミの教授の家に招待され、そこで紹介されたのが思路なのだ。その教授の娘が、思路だったのだ。
 広く立派な邸宅の、やはり広い一室で、隅の方に小さく蹲って、パソコンに向かう思路の背中を覚えている。最初こちらを見てもくれなかった思路だったが、何回か出向いているうちに、二言三言、言葉を交わしてくれるようになった。それから半年ほどして、思い切って連れて行ったのが、木村だった。私とはまた少し毛色の違う木村にも、思路は程なくして慣れた。私と木村は、話をする内に思路の頭の良さに気づき、同時に、彼女の心の底にある人懐っこさに好感を抱くようになった。思路は確かに変わった子供だったが、性格が曲がっているわけでも、周りに関心が無いわけでもなかった。彼女はただ、年齢よりも成熟してしまっていただけなのだ。そのせいか、年の離れた私や木村とは妙にウマが合い、彼女のボキャブラリーも大分増えた。初めは殆ど喋らなかった思路は、次第に私たちに口を挟む暇すら与えない程、喋るようになっていた。
 私は大学を卒業してからも、頻繁に思路と会った。しかし木村とは、お互いになかなか連絡が取れず、いつしか疎遠になっていた。警察に勤めていることも、今の今まで知らなかった。
「君も木村刑事も、私の大切な友人だ。これだけは理解しておいて欲しい。私が君のことを木村刑事に売ったのだとか、裏切ったのだとか、そういう風には考えて欲しくないんだ。私のことを恨んでくれても構わないけれど、これだけは信じて欲しい。私は君のためになりたかっただけなんだ」
 思路の言葉が、一瞬震えたような気がした。
 そうか。分かったよ、思路。
 私は、今すぐ思路を安心させてやるために、彼女の部屋を訪れたい衝動に駆られた。思路の言葉を聞いているうちに、全て理解することが出来た。思路は前々から、私の執着的な気質に危惧を抱いていたのだろう。恋人である有在への想いの強さを、何度か心配されたことがある。そもそも有在と恋人関係になるために講じた幾つかの策は、思路から伝授されたものだ。その頃から、いつかこうなるのではないかと、彼女は考えていたのだろう。だから、あのセリフが出てきたのだ。
『なるようになった』。
 確かに、そうだ。有在のために人を殺すという考えが出てきたのは、もしかしたら思路にとっては当然のなりゆきだったのかもしれない。彼女としては、悩みどころだった筈だ。友人思いの思路にとって、友人の頼みを断ることは出来ない。だが、そのために人を死なせることはしたくない。だから、こうしたのだ。食中毒を引き起こすとは言え、どの程度が致死量なのかも詳しく分かっていないような紫陽花を使うことにしたのも、万が一のことを考えてのことだったのだろう。思路は決して私を裏切った訳でも、木村の味方をした訳でもない。彼女はただ、友人のためになることをしたかっただけなのだ。
 大丈夫だよ、思路。私は全て、理解した。
 電話越しにそう答えると、思路が息を呑んだのが分かった。
「そうか。……ありがとう。きっと、君がまた私の部屋に来るのは大分先の話になるだろうね。だから今のうちに、もう一度言っておこう。君は、私の大切な友人だ。何があっても、何をしても」
 私も同じ気持ちだ、と、答える前に電話が切れた。
「……先輩、行きましょうか」
 木村の静かな促しに、私は肯いて歩き出す。もう二度と、この優しい友人たちを傷つけるようなことはすまい、と心に決めて。
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