ある引きこもりの推理2 紫陽花と友情

 私の話を聞き終えた思路は、小さく肯いて「ふうん」と言った。毎度のことなので、そのテンションの低さに落胆したりすることは無い。ただ、いつもの儀式が無事に終了したような安堵だけを感じた。
「……なるほどね。やはり、なるようになったと言うべきか……しかし、ふむ」
 思路にしては珍しい、愁い顔である。元々きつめの視線が更にきつくなり、私の足元をじっと睨みつけているようでもある。
「ねえ、君」
 思路は、ついと私を見上げた。
「私はいつも君の話を聞いて、頼み事も聞いてきた。だけれどね、私は本当はそんな事はしたくないのだよ。君のように話の合う生きた人間とは、これから先二度と巡り合うことはできないのではないかと危惧している位だ。私は、君という友人を、失いたくない」
 思路が何を言わんとしているのか、私にはよく分かる。本当は私だって、思路とはもっと違う話をしていたいのだ。紅茶専門店から新しく発売された茶葉の話だとか、古典ミステリのトリックについて検証するだとか。しかし、ただの友人として接するには、彼女はあまりにも有能過ぎた。
 思路は暫く、そのままじっと私を見つめていた。だが、不意に小さく息をついて、その視線を逸らした。
「まあ、良いさ。私は話を聞いてしまった。友人として、頼み事を聞いてあげよう」
 悲しそうな表情。愁い顔よりも更に珍しい、表情だった。
「では、これからは私の独り言だ。ちょっとした小説の腹案だ。それを聞くも聞かないも君の自由。帰るなら今だよ」
 帰る筈がない。私は思路の冷めた表情から目を離さなかった。思路はため息をついた。それから少しの間、カチャカチャとノートパソコンを弄っていたが、やがて気乗りしない表情で話し始めた。
「……さて。君の恋人である水野有在ありあは、T大学の研究助手をしている。彼女は最近、自分で取り組んでいた研究の成果が認められ、研究室長に昇進する話が持ち上がっている。しかし、昇進の話は同時に、彼女の同期である江枝ええ氏にもあった。つまり、水野女史と江枝氏、どちらかが次の研究室長になるわけだ。研究室長になる人間を決めるのは、複数の研究室を管轄しているびい教授。贔教授は普段から水野女史の研究に多大な関心を寄せており、研究室内では水野女史の方が有利であろうという見方が大きい。水野女史と江枝氏は、お互いに植物に付く害虫の研究をしており、贔教授は毒草についての研究をしているんだったね。水野女史の研究対象が贔教授の研究対象と同じだから、水野女史の方が贔屓されているのだという声もある……間違いないね」
 私が肯いて見せると、思路は話を続けた。
「さて、研究室長を決める最終会議は一か月後に開かれる。水野女史と江枝氏は、その会議に提出するための研究報告を纏めている際中である……そんな中、水野女史と江枝氏に、贔教授からケーキが贈られる」
 ケーキ?
 私が首をひねると、思路は、黙って聞けと目で言った。
「お互いに切磋琢磨して、より良い報告を上げようとしている二人への差し入れとして贈られたケーキだ。それを食べた江枝氏は、突然苦しみだし、倒れてしまう。ところで、君はエディブルフラワーを知っているかな」
 知らない、と首を振った私に、思路は「やっぱりね」と頷く。
「エディブルフラワーというのは、ケーキの飾り花のことだ。食用に栽培されたものだから、食べても問題はない。ただ、食用に栽培されていなかった場合が少々問題になるのだよ。さて、死亡した江枝氏の体内からは、ある毒物が検出される。その毒物の特性と、胃の内容物から、原因はケーキに添えられていた紫陽花の花であることが判明する。そう、紫陽花だよ。君も紫陽花くらいは見たことがあるだろう? あれには、未だに原因となる毒素がはっきりしないながらも、人間に対する毒性があることが分かっているんだ。昔にも、ケーキの飾りとして使われて、食中毒を引き起こしたことがあるくらいだ。そうした事件を受けて平成二十年には、厚生労働省から『食品の飾りとして使わないように』というお達しまで出ている」
 言いながら思路は、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。そこには、厚生労働省が出したというお触書の書面が映し出されていた。どうやら、紫陽花による中毒死事件は、過去に二件起きているらしい。
 青紫や赤色、時には白色に姿を変え、仕事に明け暮れる私の目を和ませてくれていた紫陽花に、そんな毒性があったとは。通勤途中の道に群生している紫陽花を思い出して、私は複雑な気分になる。しかし思路は、そういう私の気分にはお構いなしに、話を続ける。
「警察はケーキの販売元を調べる。しかし、そこでは紫陽花の花なんぞ使ってはいない。何せ、過去に食中毒を起こし、厚生労働省から使用禁止令が出されているのだからね。食品を扱う業者としては、使う筈がない。同時に、そちらの調査と並行して、ケーキを食べても死ななかった水野女史の取り調べが行われる。水野女史としては、自分も同じケーキを食べているのだから、死ななかったのは運が良かったのだと考えるだろう。だがそこで、紫陽花の花について言及されて初めて気づくんだ。『自分のケーキには紫陽花の花など入っていなかった』、と」
 それでは、有在が疑われてしまうのではないか。
 私の、声にならない抗議に、思路は軽く肯いた。
「そうだね。これでは彼女が疑われてしまう。何せ時期が時期だ。争っている相手が毒に倒れたとなれば、疑いがかかるのも当然。だがね」
 眉を顰める私を宥めるように、思路は続ける。
「ここで重要なのは、江枝氏がケーキを受け取って食べる前、そして食べた時、水野女史が江枝氏のケーキに触れることはできない、ということだ」
 触れることができない? それはつまり、物理的・時間的・空間的に、不可能な状況にあれば良いということか。
「そう、その通り。君はすぐに顔に出るな。他にも君のような人間を知っているが……私の友人は皆、感情が表に出やすいタイプのようだね。そう、君が思った通り、贔教授がケーキを買い、江枝氏に渡すまでの間に、水野女史が別の場所にいれば万事は解決するというわけさ。なに、そう都合良くはいかない? そんなことはないさ。ほら、これを見給え」
 そう言って思路が見せてくれたノートパソコンの画面には、隣県にあるE大学で数週間後に開催される、植物学シンポジウムの案内が表示されていた。しかし、それがどうしたと言うのだろう。
「……しっかり見給え。君は恋人の名前を発見することも出来ないのかい。いや、馬鹿にしているのではないがね。ほら、ここにあるだろう、水野女史の名前が」
 まだスナック菓子の赤みの残る思路の細い指が、画面を指す。そこには確かに、有在の名前があった。どうやら、このシンポジウムに講師として列席するらしい。
「もう分かっただろう。彼女がこのシンポジウムに参加するためには、前日から隣県に宿泊している必要がある。開催時間が極端に早いからね。そしてシンポジウムが終わるのは夕方。その後の懇親会とやらに参加するにせよしないにせよ、その日中には戻って来れやしないだろう。つまり、彼女がT大学を空ける期間はまるまる二日間あるのだよ。この間に贔教授がケーキを買い、江枝氏がそれを口にすれば良い。簡単な話さ」
 確かに、二日間あれば、ケーキを口にすることなど簡単だろう。だが、しかし。
「ふむ、君にしては察しが良いね。そう、この粗筋には一つだけ無理がある。贔教授が何故わざわざ水野女史のいない時にケーキを買ってくるのか、という点だ。ここで、君の登場だ」
 突然指を差されて、私はどぎまぎする。私が何をすれば良いと言うのだ。
「君は贔教授と親しかったね。仕事で知り合って、それから交友するようになったとか。その君の口から、シンポジウム前日に、君の恋人である水野女史が急遽シンポジウムに参加できなくなったと聞かされれば、どうだろう。贔教授としては、君を疑う必要なんてないわけだから、きっと信用するに違いない。軽い体調不良だから、普通通り大学には出勤するとでも言っておけば、まず問題はない。しかし当日、ケーキを持って現れた贔教授は、水野女史には会えない。なぜならば彼女は予定通りシンポジウムに参加するのだからね。大学で戸惑う贔教授に、君は電話を掛ける。『水野は体調が回復したため、予定通りシンポジウムに向かった』と。あとは、さっき言った通りさ。紫陽花の毒で江枝氏は死亡、水野女史は『運よく』助かる。紫陽花の花の出所については、警察の調査でも恐らく何も分からないだろう。そうすると、最も機会に恵まれ、更に水野女史を贔屓していたという噂のある贔教授が犯人として浮上するだろうね。……可能性としては、紫陽花がケーキに添えられていたということが判明せず、ケーキについての言及すらされないことも考えられる。この場合はそもそも、紫陽花の誤食ということで済まされてしまうだろうから、事件にすらならない」
 思路は淀みなく喋っていたが、そこで言葉を切り、表情を曇らせた。
「以上が私の腹案というやつだが……、君はこれを聴いて、『いつも通りに』するんだろうね」
 私が肯くと、思路は眉根を寄せて険しい表情になった。
「私は友人を大事にする人間だ。だから君の頼み事も聞いてきたし、私の考えを話もした。だから」
 そこで彼女は、今までうつむき加減だった顔を勢い良く上げて、私を見た。正面からきっと、私の目を見据えた。黒くて大きな瞳に吸い込まれる。
「だから、私はここで君に言っておかなくてはいけない。君は、そんなことをしてはいけない。するべきではない」
 今まで彼女の口から出た中で、最も力の入った言葉だ。
 単純に、そう感じた。
「これは冗談ではない。そんなことをしたら君は、後悔するだろう。絶対に後悔する」
 私は沈黙で返す。何よりもそれが、私の決意を代弁してくれる筈だと信じて。思路は数秒、言葉同様力のこもった眼差しで私を見つめていたが、やがて、ふっと視線を逸らした。諦められた……、そう感じた。
「分かった。君がそうしたいなら、し給え。私はもう、止めはしないよ。言うだけのことは言った。もう、私に出来ることは無い」
 私が何も言えず黙っていると、思路はふっと表情を緩めて、こちらを見た。およそ高校生とは思えない、包み込むような暖かさを持った視線。
「私は何も、君を嫌いになったわけではないよ。例え君が何をしようとも、私は君の友人だ。それは変わらない。……君は、どうか知らないけれどね」
 その気持ちは私も同じだ、と私が慌てて言うと、思路は首を振った。
「どうだろうね。私が君の不利益になるようなことをしたとしても、君が変らない気持ちでいてくれるかどうかは、誰にも分からないことだろうと思うんだ。君には何のことだか分からないだろうがね……」
 尚もよく分からない台詞を口にする思路は、どこか遠くを見ているような目をしていた。
2/3ページ
スキ