ある引きこもりの推理2 紫陽花と友情
よく晴れた六月の水曜日、私は、とあるアパートの一室を訪れた。 銘楼荘 という、特別古くも汚くもないが、とにかく小さく狭い三階建てのアパートである。近所のコンビニで買った激辛スナック菓子をぶら提げて螺旋階段を上り、二階の最奥、階段から数えて三番目の部屋のドアをノックした。「どうぞ」という声を確認して、ドアを開ける。
一間四畳半の室内は、この間来た時と全く変わりがないように思えた。一言で言うならば、「居心地が良い」。
相変わらず床に散乱した、数多の書籍から発される紙の匂いが、優しく鼻腔をくすぐる。左壁に配置された本棚に並べられた本の無秩序さが、安心感を与えてくれる。昼間も夜も閉じられっぱなしのブラインドから僅かに射し込む日光が、遠慮がちに煌めいているのも快い。
四六時中付けられている蛍光灯の灯りが柔らかく室内を照らしているのを、私は満足して眺めた。
「何をぼーっと突っ立っているんだい。そんな所にいて面白いのかい」
そう声をかけて来たのは、この部屋の主である 宮名 思路 だった。いつも通りに長い黒髪を無造作に垂らし、所属してはいるものの通っていないらしい高校の制服であるセーラー服を律儀に着こなしている思路は、床に座ったまま、玄関に立ち尽くす私を見て不思議そうに首を傾げた。
「ともかく、上がり給えよ。今はちょうど暇を持て余していたところなんだ」
見ると、珍しいことに、思路は何も手にしていなかった。いつもなら何らかの書籍か、ゲームのコントローラーか、ノートパソコンのマウスか、クリスタルガイザーのペットボトルか何かを手にしているのだが。
「私でも、何も手にしていないことくらいあるさ。それとも何かな、君は私を物品所持中毒者か何かだとでも思っていたのかな」
私の視線に気づいたのか、思路は言いながら肩をすくめて見せた。整った白い顔は、やはり何を考えているのやら分からない。
「しかし久しぶりだね。かれこれ半年ぶりじゃないか。見たところ元気そうで何よりだ。さあほら、君の好きな紅茶を淹れて、そこにでも座ると良い」
思路は私に一言も話す余地を与えず、手で床に置いてあった大きな丸いクッションを指した。前に来た時には置いていなかった筈だが。
「『人をダメにするクッション』とやらだ。ほら、一時期ネットで流行しただろう。……知らない? そうか。まあ、とにかくさっさと座り給え。どうだい、なかなかいい座り心地だろう。わからない? 君という人間はまったく……まあ良いさ」
思路の平坦な口調を背後に聴きながら、私は再び立ち上がってシンクに向かった。この部屋の台所は玄関と地続きになっており、簡単な調理ができる位の広さしかない。そんなスペースの凡そ半分程、つまり、流しを除いたスペースの大部分は、茶葉で埋められている。幾種類もの紅茶の缶、緑茶の袋。コーヒー豆も何種類かあるようだ(だがしかし、そのコーヒー豆を挽く道具は見当たらない)。中国語で書かれた袋も散見される。ひょっとしたら親戚か誰かが台湾にでも旅行したのかもしれない。
そんなことをつらつら考えながら缶を開けて紅茶を淹れ、自分の分のカップだけを持って、クッションに座った。思路はいつも手元に置いているノートパソコンの上からクリスタルガイザーのペットボトルを取り上げ、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
「こう暑くなってくると、やけに喉が渇くね。この水も、今日だけでもう三本目だ」
今はまだ昼の二時。常識的に考えて、飲み過ぎである。
「まあ、そんなことはどうでも良いね。ところで、その手に持っている袋の中身だが……それは最近発売した『激辛キングチップス』のように見えるのだけど……やはりそうか!」
思路は嬉々として、私が持つ袋から菓子を取り出した。思路の言う通り、これは『激辛キングチップス』である。つい先週発売となったらしい菓子で、名前の通り、従来の激辛スナック菓子とは一線を画す辛さらしい。ハバネロだか何だか、とにかく大層辛そうな唐辛子のイラストがでかでかと躍っている。
「丁度、在庫を切らしていたところなのだよ。君が私の辛い物好きを覚えてくれていたとは思わなかったな。ああ、本当に嬉しい予想外だよ。いただいて良いかな? 良いだろうね?」
どうぞ、と肯いて見せると、思路は満面の笑みで袋を開け、ポテトチップスをぱりぱりと食べだした。白い指が、みるみる赤く染まっていく。
「ああ、美味しいなあ辛いなあ。辛いものは人生を楽しく過ごすのに必要不可欠だよ、君もそう思うだろう。思わない? ふうん、まあ良いさ。それなら、これは私が全ていただいてしまうよ、構わないね? ありがとう!」
瞬く間に一袋食べきってしまった思路は、少しの間満足げに目を閉じていた。瞼の端がほんのりと色づいているのが分かる。一瞬だけ見とれそうになったが、思路が目を開けたので、私は慌てて視線を逸らした。思路は早くも辛さの余韻から脱したらしく、また平坦な口調に戻って言った。
「さて、辛味成分の補給も終わったところで、君の話を聞かせてくれ給え。そうだ、話だよ。君が来るということは、またぞろ頼み事なのだろう。まあ、頼みを聞くか聞くまいかは、いつも通り、話を聞いてから判断させてもらうがね。しかし君の顔色を見るに、あまり気持ちのいい話題でもなさそうだね。どうせいつもの如く、愛憎相まったどろどろしい話なのだろう。……さあ、聞かせてくれ給え」
私はカップを手にしたまま、話を始めた。
一間四畳半の室内は、この間来た時と全く変わりがないように思えた。一言で言うならば、「居心地が良い」。
相変わらず床に散乱した、数多の書籍から発される紙の匂いが、優しく鼻腔をくすぐる。左壁に配置された本棚に並べられた本の無秩序さが、安心感を与えてくれる。昼間も夜も閉じられっぱなしのブラインドから僅かに射し込む日光が、遠慮がちに煌めいているのも快い。
四六時中付けられている蛍光灯の灯りが柔らかく室内を照らしているのを、私は満足して眺めた。
「何をぼーっと突っ立っているんだい。そんな所にいて面白いのかい」
そう声をかけて来たのは、この部屋の主である
「ともかく、上がり給えよ。今はちょうど暇を持て余していたところなんだ」
見ると、珍しいことに、思路は何も手にしていなかった。いつもなら何らかの書籍か、ゲームのコントローラーか、ノートパソコンのマウスか、クリスタルガイザーのペットボトルか何かを手にしているのだが。
「私でも、何も手にしていないことくらいあるさ。それとも何かな、君は私を物品所持中毒者か何かだとでも思っていたのかな」
私の視線に気づいたのか、思路は言いながら肩をすくめて見せた。整った白い顔は、やはり何を考えているのやら分からない。
「しかし久しぶりだね。かれこれ半年ぶりじゃないか。見たところ元気そうで何よりだ。さあほら、君の好きな紅茶を淹れて、そこにでも座ると良い」
思路は私に一言も話す余地を与えず、手で床に置いてあった大きな丸いクッションを指した。前に来た時には置いていなかった筈だが。
「『人をダメにするクッション』とやらだ。ほら、一時期ネットで流行しただろう。……知らない? そうか。まあ、とにかくさっさと座り給え。どうだい、なかなかいい座り心地だろう。わからない? 君という人間はまったく……まあ良いさ」
思路の平坦な口調を背後に聴きながら、私は再び立ち上がってシンクに向かった。この部屋の台所は玄関と地続きになっており、簡単な調理ができる位の広さしかない。そんなスペースの凡そ半分程、つまり、流しを除いたスペースの大部分は、茶葉で埋められている。幾種類もの紅茶の缶、緑茶の袋。コーヒー豆も何種類かあるようだ(だがしかし、そのコーヒー豆を挽く道具は見当たらない)。中国語で書かれた袋も散見される。ひょっとしたら親戚か誰かが台湾にでも旅行したのかもしれない。
そんなことをつらつら考えながら缶を開けて紅茶を淹れ、自分の分のカップだけを持って、クッションに座った。思路はいつも手元に置いているノートパソコンの上からクリスタルガイザーのペットボトルを取り上げ、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
「こう暑くなってくると、やけに喉が渇くね。この水も、今日だけでもう三本目だ」
今はまだ昼の二時。常識的に考えて、飲み過ぎである。
「まあ、そんなことはどうでも良いね。ところで、その手に持っている袋の中身だが……それは最近発売した『激辛キングチップス』のように見えるのだけど……やはりそうか!」
思路は嬉々として、私が持つ袋から菓子を取り出した。思路の言う通り、これは『激辛キングチップス』である。つい先週発売となったらしい菓子で、名前の通り、従来の激辛スナック菓子とは一線を画す辛さらしい。ハバネロだか何だか、とにかく大層辛そうな唐辛子のイラストがでかでかと躍っている。
「丁度、在庫を切らしていたところなのだよ。君が私の辛い物好きを覚えてくれていたとは思わなかったな。ああ、本当に嬉しい予想外だよ。いただいて良いかな? 良いだろうね?」
どうぞ、と肯いて見せると、思路は満面の笑みで袋を開け、ポテトチップスをぱりぱりと食べだした。白い指が、みるみる赤く染まっていく。
「ああ、美味しいなあ辛いなあ。辛いものは人生を楽しく過ごすのに必要不可欠だよ、君もそう思うだろう。思わない? ふうん、まあ良いさ。それなら、これは私が全ていただいてしまうよ、構わないね? ありがとう!」
瞬く間に一袋食べきってしまった思路は、少しの間満足げに目を閉じていた。瞼の端がほんのりと色づいているのが分かる。一瞬だけ見とれそうになったが、思路が目を開けたので、私は慌てて視線を逸らした。思路は早くも辛さの余韻から脱したらしく、また平坦な口調に戻って言った。
「さて、辛味成分の補給も終わったところで、君の話を聞かせてくれ給え。そうだ、話だよ。君が来るということは、またぞろ頼み事なのだろう。まあ、頼みを聞くか聞くまいかは、いつも通り、話を聞いてから判断させてもらうがね。しかし君の顔色を見るに、あまり気持ちのいい話題でもなさそうだね。どうせいつもの如く、愛憎相まったどろどろしい話なのだろう。……さあ、聞かせてくれ給え」
私はカップを手にしたまま、話を始めた。