ある引きこもりの推理1
私は、雪が解け始めてぬかるんでいる道路を走っていた。足元で泥の撥ねる音がする。恐らく、おろしたてのスーツの裾は酷いことになっているだろう。しかし、そんなことに構ってはいられない。事件を解決しなくてはならないのだ。
住宅街を抜けると、目指すアパートが見えてきた。特別古くも汚くもないが、信じられないほどに小さく狭い、三階建てのアパートである。確か一室一間の四畳半だったか。一間の他には、玄関と殆ど一体となっている台所と、申し訳程度に付いている洗面所、それから便所があったはずだ。相も変わらず小さなアパート『銘楼荘 』の螺旋階段を駆け上りながら、私はそんなことを思い出す。そういえば、ここに来るのはいつ以来だろう。
各階には三つずつ部屋があり、それぞれに続く細長いドアが並んでいる。私は二階の廊下を歩き、一番奥の部屋のドアを慌ただしく叩いた。少し待つと、中から「どうぞ」という声が、微かに聞こえた。私は勇んでドアを開け、玄関に駆け込んだ。
部屋の中は、前に来た時と同じ有様だった。簡単に言うならば、『足の踏み場がない』。
玄関から入って一番奥の壁に位置している採光窓は季節に関係なくいつでも閉じられており、昼間でもブラインドが下りているのだが、その代わりに煌々と点けられた蛍光灯の光の下、目に入って来るのは紙の束や本の山である。一体いつのものか分からない程古びたパサパサの和綴じ本が壁の方に積まれているかと思えば、少年ジャンプがひと月ごとに仕分けされて窓の下に一年分干されていたりする。辞書類は広辞苑から明鏡国語辞典、ジーニアス英和辞典などお馴染みのものから、ラテン語辞典なんてものまで、まるで蹴倒してくださいとでも言わんばかりに、玄関のすぐ前に積み重ねられている。その辞典類の後ろにはムーのバックナンバーが一揃いビニールひもで括られて鎮座しているし、岩波文庫と新潮文庫とハヤカワ文庫と角川文庫が手に手を取り合って楽しげに、床に寝転がっている。その寝姿は完全なる無造作だ。また、読んでいる最中に読者が用事を思い出して中座したらしく、広げられたままに放置されている本も多々ある。そしてまたその上に、何に使うのだかよく分からない石ころやら巾着袋やらビー玉やらが転がっており、そうした物の間に、見るも鮮やかな花を綻ばせた鉢植えが聳え立っていたりもする。部屋の主は(そんな話を聞いたことは一度もないのだが)海が好きらしく、海中を撮影した写真付きポスト―カードが幾枚も壁に貼り付けられており、合間にはアニメキャラの切り抜きが飛び跳ねている。天井を見上げると、前の部屋の主が残していった、板でできたダーツの的が釘で打ち付けられており、小さな穴が数えきれないほど開いている。この部屋で最も存在感を放っているのは左側の壁に置かれた本棚で、これが小さな部屋の三分の二ほどを占領していると言って良いのだが、その本棚の中には『長くつ下のピッピ』や『モモ』といった児童文学に『はらぺこあおむし』や『てぶくろを買いに』などの絵本から、『氷点』や『砂の器』、『犬神家の一族』など大人向けの小説も揃っている。『大菩薩峠』まである。中には『人は見た目が九割』『かなり気がかりな日本語』などの新書もあるようだ。
そうした本や雑貨や画板や画集やペン立てなんかに埋もれるようにして床に置かれているのが、小さなテレビとノートパソコンだ。今は閉じられたノートパソコンの上に、クリスタルガイザーのペットボトルが置かれ、小さなテレビからはコードが伸び、昔懐かしい灰色のゲーム機器が繋がれている。そしてその前に、セーラー服を着た長い黒髪の少女が、こちらに背中を向けるようにして座っている。
部屋の主、宮名 思路 だ。
思路は私がドアを開くと同時に振り返り、その整った顔をこちらに向けた。私を認めると、形の良い眉をちょっと上げた。
「なんだ、君か」
なんだとは挨拶だな、と言おうと思ったのもつかの間、思路の言葉は止まらない。
「まあいいや、さっさと入り給えよ。ドアはきちんと閉めてくれ、風が入ると寒くて仕方ない。雪解けが始まったとは言え、まだまだ冬だね。ほら、突っ立ってないで早く座り給え。そんな所にぼうっと立っていられたら私の精神衛生上よろしくない。座るスペースが無いとでも言いたげだが、そんなもの、自分で開拓して欲しいものだな。フロンティア精神というものを知らないのかね。ほら、そこに丁度手頃なゴミ箱があるだろう。中身のことは気にしなくていいから、その上にこの画板でも置いて座り給え。私はひきこもるのに忙しい。用が済んだらさっさと出て行ってくれるね」
一息に言い切ってから、思路は切れ長の黒い双眸で、玄関に突っ立っている私を見上げている。……やれやれ。私はちょっと肩をすくめてから辞書の塔を飛び越え、文庫本の間に出来たブランクを飛び石のように渡り歩き、思路が差し出す画板を受け取り、ノートパソコンの横にあったゴミ箱の上に置き、その上に座った。そうして思路を見ると、彼女は少し満足げな表情で肯いた。
思路は引きこもりだ。本来なら高校に通っていなくてはならないのだが、どうやら彼女には思うところがあるらしく、もう一年以上、学校に行っていないそうだ。引きこもりと言うよりも登校拒否と言った方が相応しいのかもしれないが、思路本人としては「登校拒否」ではなく「引きこもり」と形容して欲しいのだそうだ。そうした微妙な心情は私にはよく理解できないが、そもそも思路について私が理解していることなど殆ど無いと言って良い。私が理解しているのは、思路という人間が俗に言う「美少女」であるということと「引きこもり」であるということ、そして、「頭が良い」ということだけである。
「それで?」
思路が、床にぺたんと座ったままで私を見上げる。混じり気のない漆黒の瞳が長い睫毛の間から覗いている。軽く結ばれた桜色の唇は小さく盛り上がっており、細い顎のラインが儚げだ。白い顔を縁どるのはこれまた瞳と同じく漆黒の髪で、引きこもっているというのに健康的な艶を見せている。高校二年生という年齢の割に大人のような落ち着きを持った思路は、年齢に相応の制服をスカーフまできっちり結んでいるが、それがまた彼女のために誂えたのではないかと思われるほどに似合っていた。運動不足の賜物以外の何物でもない彼女の細い脚が、校則を厳守した長さのスカートから、すらりと伸びているのが目に入る。
私が口を開きかけると、その発言権を奪うかのように、思路はまたも喋りだした。
「まあ、君が来たということは、またぞろ事件なのだろうね。君がスーツ姿で来るということは。当たりだね? 君という奴は、本当に分かりやすい。何でもすぐに顔に出る。……しかし、タイミングが悪いねえ。私は今まさに『かまいたちの夜』をプレイしようとしていたのだよ。こうしてカセットまでセットして、あとは電源ボタンを入れればすぐにでもスタートできるのに……」
唇を尖らせた思路の視線の先には、私も先ほど気づいた、昔懐かしいゲーム機器がある。上部に差しこんであるカセットには、確かに『かまいたちの夜』の文字。またよく見ると、思路の手の中にはコントローラーが握られていた。
「……まあ、いいよ」
思路は一つため息をついて、コントローラーを放り投げた。薄っぺらいそれは、本の山と山との間に消える。
「話したいのなら、さっさと話してくれ給え。プレイに予定していた時間だけ、君の話に割いてあげよう。ああ、そうだ。君のことだから、お茶なんて洒落たものを欲しがるんだろう。いいとも、そこから好きな茶葉を選んで淹れ給え」
思路が投げやりに指さした先には、小さな台所がある。勝手知ったる他人の部屋。私はシンクに置いてある食器棚に並んだ紅茶缶の中から一つを選んで取り出した。……リプトンだ。どうやら、他の缶も全てリプトンらしい。以前は私が好むブランドの茶葉が置いてあったように思ったのだが、もう無くなってしまったようだ。
「おいおい贅沢なことを考えるんじゃない、君が欲しがるような高級品はもう無いよ。リプトンで我慢することだ」
仕方ない。
私は小さなケトルでお湯を沸かし、リプトンの紅茶を二人分淹れて、また元の場所へ舞い戻った。お盆にのせてきたティーカップの一つを、思路の前に置く。思路はそれをさっさと飲み干してしまった。
「よし、もう必要なものは無いね。では、話を聞こう」
そうして、思路は体育座りをした。思路なりの、話を真剣に聞く姿勢の表明だ。それを知っている私は、紅茶を飲む暇も惜しんで、事件について話を始めた。
住宅街を抜けると、目指すアパートが見えてきた。特別古くも汚くもないが、信じられないほどに小さく狭い、三階建てのアパートである。確か一室一間の四畳半だったか。一間の他には、玄関と殆ど一体となっている台所と、申し訳程度に付いている洗面所、それから便所があったはずだ。相も変わらず小さなアパート『
各階には三つずつ部屋があり、それぞれに続く細長いドアが並んでいる。私は二階の廊下を歩き、一番奥の部屋のドアを慌ただしく叩いた。少し待つと、中から「どうぞ」という声が、微かに聞こえた。私は勇んでドアを開け、玄関に駆け込んだ。
部屋の中は、前に来た時と同じ有様だった。簡単に言うならば、『足の踏み場がない』。
玄関から入って一番奥の壁に位置している採光窓は季節に関係なくいつでも閉じられており、昼間でもブラインドが下りているのだが、その代わりに煌々と点けられた蛍光灯の光の下、目に入って来るのは紙の束や本の山である。一体いつのものか分からない程古びたパサパサの和綴じ本が壁の方に積まれているかと思えば、少年ジャンプがひと月ごとに仕分けされて窓の下に一年分干されていたりする。辞書類は広辞苑から明鏡国語辞典、ジーニアス英和辞典などお馴染みのものから、ラテン語辞典なんてものまで、まるで蹴倒してくださいとでも言わんばかりに、玄関のすぐ前に積み重ねられている。その辞典類の後ろにはムーのバックナンバーが一揃いビニールひもで括られて鎮座しているし、岩波文庫と新潮文庫とハヤカワ文庫と角川文庫が手に手を取り合って楽しげに、床に寝転がっている。その寝姿は完全なる無造作だ。また、読んでいる最中に読者が用事を思い出して中座したらしく、広げられたままに放置されている本も多々ある。そしてまたその上に、何に使うのだかよく分からない石ころやら巾着袋やらビー玉やらが転がっており、そうした物の間に、見るも鮮やかな花を綻ばせた鉢植えが聳え立っていたりもする。部屋の主は(そんな話を聞いたことは一度もないのだが)海が好きらしく、海中を撮影した写真付きポスト―カードが幾枚も壁に貼り付けられており、合間にはアニメキャラの切り抜きが飛び跳ねている。天井を見上げると、前の部屋の主が残していった、板でできたダーツの的が釘で打ち付けられており、小さな穴が数えきれないほど開いている。この部屋で最も存在感を放っているのは左側の壁に置かれた本棚で、これが小さな部屋の三分の二ほどを占領していると言って良いのだが、その本棚の中には『長くつ下のピッピ』や『モモ』といった児童文学に『はらぺこあおむし』や『てぶくろを買いに』などの絵本から、『氷点』や『砂の器』、『犬神家の一族』など大人向けの小説も揃っている。『大菩薩峠』まである。中には『人は見た目が九割』『かなり気がかりな日本語』などの新書もあるようだ。
そうした本や雑貨や画板や画集やペン立てなんかに埋もれるようにして床に置かれているのが、小さなテレビとノートパソコンだ。今は閉じられたノートパソコンの上に、クリスタルガイザーのペットボトルが置かれ、小さなテレビからはコードが伸び、昔懐かしい灰色のゲーム機器が繋がれている。そしてその前に、セーラー服を着た長い黒髪の少女が、こちらに背中を向けるようにして座っている。
部屋の主、
思路は私がドアを開くと同時に振り返り、その整った顔をこちらに向けた。私を認めると、形の良い眉をちょっと上げた。
「なんだ、君か」
なんだとは挨拶だな、と言おうと思ったのもつかの間、思路の言葉は止まらない。
「まあいいや、さっさと入り給えよ。ドアはきちんと閉めてくれ、風が入ると寒くて仕方ない。雪解けが始まったとは言え、まだまだ冬だね。ほら、突っ立ってないで早く座り給え。そんな所にぼうっと立っていられたら私の精神衛生上よろしくない。座るスペースが無いとでも言いたげだが、そんなもの、自分で開拓して欲しいものだな。フロンティア精神というものを知らないのかね。ほら、そこに丁度手頃なゴミ箱があるだろう。中身のことは気にしなくていいから、その上にこの画板でも置いて座り給え。私はひきこもるのに忙しい。用が済んだらさっさと出て行ってくれるね」
一息に言い切ってから、思路は切れ長の黒い双眸で、玄関に突っ立っている私を見上げている。……やれやれ。私はちょっと肩をすくめてから辞書の塔を飛び越え、文庫本の間に出来たブランクを飛び石のように渡り歩き、思路が差し出す画板を受け取り、ノートパソコンの横にあったゴミ箱の上に置き、その上に座った。そうして思路を見ると、彼女は少し満足げな表情で肯いた。
思路は引きこもりだ。本来なら高校に通っていなくてはならないのだが、どうやら彼女には思うところがあるらしく、もう一年以上、学校に行っていないそうだ。引きこもりと言うよりも登校拒否と言った方が相応しいのかもしれないが、思路本人としては「登校拒否」ではなく「引きこもり」と形容して欲しいのだそうだ。そうした微妙な心情は私にはよく理解できないが、そもそも思路について私が理解していることなど殆ど無いと言って良い。私が理解しているのは、思路という人間が俗に言う「美少女」であるということと「引きこもり」であるということ、そして、「頭が良い」ということだけである。
「それで?」
思路が、床にぺたんと座ったままで私を見上げる。混じり気のない漆黒の瞳が長い睫毛の間から覗いている。軽く結ばれた桜色の唇は小さく盛り上がっており、細い顎のラインが儚げだ。白い顔を縁どるのはこれまた瞳と同じく漆黒の髪で、引きこもっているというのに健康的な艶を見せている。高校二年生という年齢の割に大人のような落ち着きを持った思路は、年齢に相応の制服をスカーフまできっちり結んでいるが、それがまた彼女のために誂えたのではないかと思われるほどに似合っていた。運動不足の賜物以外の何物でもない彼女の細い脚が、校則を厳守した長さのスカートから、すらりと伸びているのが目に入る。
私が口を開きかけると、その発言権を奪うかのように、思路はまたも喋りだした。
「まあ、君が来たということは、またぞろ事件なのだろうね。君がスーツ姿で来るということは。当たりだね? 君という奴は、本当に分かりやすい。何でもすぐに顔に出る。……しかし、タイミングが悪いねえ。私は今まさに『かまいたちの夜』をプレイしようとしていたのだよ。こうしてカセットまでセットして、あとは電源ボタンを入れればすぐにでもスタートできるのに……」
唇を尖らせた思路の視線の先には、私も先ほど気づいた、昔懐かしいゲーム機器がある。上部に差しこんであるカセットには、確かに『かまいたちの夜』の文字。またよく見ると、思路の手の中にはコントローラーが握られていた。
「……まあ、いいよ」
思路は一つため息をついて、コントローラーを放り投げた。薄っぺらいそれは、本の山と山との間に消える。
「話したいのなら、さっさと話してくれ給え。プレイに予定していた時間だけ、君の話に割いてあげよう。ああ、そうだ。君のことだから、お茶なんて洒落たものを欲しがるんだろう。いいとも、そこから好きな茶葉を選んで淹れ給え」
思路が投げやりに指さした先には、小さな台所がある。勝手知ったる他人の部屋。私はシンクに置いてある食器棚に並んだ紅茶缶の中から一つを選んで取り出した。……リプトンだ。どうやら、他の缶も全てリプトンらしい。以前は私が好むブランドの茶葉が置いてあったように思ったのだが、もう無くなってしまったようだ。
「おいおい贅沢なことを考えるんじゃない、君が欲しがるような高級品はもう無いよ。リプトンで我慢することだ」
仕方ない。
私は小さなケトルでお湯を沸かし、リプトンの紅茶を二人分淹れて、また元の場所へ舞い戻った。お盆にのせてきたティーカップの一つを、思路の前に置く。思路はそれをさっさと飲み干してしまった。
「よし、もう必要なものは無いね。では、話を聞こう」
そうして、思路は体育座りをした。思路なりの、話を真剣に聞く姿勢の表明だ。それを知っている私は、紅茶を飲む暇も惜しんで、事件について話を始めた。
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