人間とは

 上記のような幽霊族の深い愛情あふれる生き様に対して、あの村の人間たちはどうだろう。純真な子供(時弥)を除いて村全体で犯罪に加担し(させられ)、その中心部にいた龍賀一族に至っては理を外れた所業の数々に手を染めていた。人を人と思わないそのやり方は、もはや人間ではない(水木が乙米に向かってそう言っていた記憶があるんだけどどうだっけ)。人間の形をした非人間たちと、人間ではないけれど人間らしい愛情で生きている幽霊族との対立が際立っていた。
 水木は愛というより、信頼や、自分が守るべき矜持、それこそ人間らしさというようなものを体現していたように思う。強くなければ生きていけない、だから利用できる状況は利用して成り上がってやる、と思っているけれど、その根本には悲惨で理不尽な状況下で発露する人間の弱さ・醜さを目前にし、しかしなす術がなかったという境遇を経てきたというのがあって、彼はそちら側(搾取する側、大義名分を振り翳して平気で弱者をいたぶる者たちのいる場所)には立ちたくない、それは人間ではないと判じている。だからこそ彼は幽霊族と共に立ち、時貞翁を「つまらない」人間だと評した。
 弱いものに味方してやりたいという根っこのところにある気持ちを最後の最後、鬼太郎を抱き上げたところで叶えることができた、人間の善性を持った人なのだと思う。
 生きるということはままならぬもので、自分を手駒のように使う上司や取引先の人間に抵抗できない普通の男である水木が、あの狂った場所にあって最後まで立ち続け、人間らしさを失わなかったのは格好良かった。
 主に水木の回想シーンで描かれるが、戦争というものがいかに人を狂わせるか(もしくは人の普段は隠された本性を引き摺り出すか)ということをテーマに内包しているのが水木しげる作品らしさを感じたし、とても良心的だったと思う。
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