望遠鏡なんて要らない

 まだ幼さの残る、高い男の子の声だった。
「……ええっと。おれはその、怪しいもんじゃなくて。ただの通りすがりっていうか……」
 こっそり姿を窺い知ろうとしていたためにばつが悪く、おれはしどろもどろに弁解しようとした。しかし相手は、おれがそれ程年上でないと分かったのか、それまでの緊張を一気に解いてしまったように明るい声音で続けた。
「もしかして、あなたも星を見に? だったら、ここは丁度良い場所ですよ。周りに光が無いし頭上に障害物も無いし。おまけに今日は流星群ですからね。それで、こんな時間にいらっしゃったんでしょう?」
「……うん、そうなんだ。そうなんだよ。そうそう、星を見に来たんだ」
 つい、相手の勢いに押されて話を合わせてしまった。内心、何をやっているんだと思わないでもなかったが、今日が流星群だと聞いて、話を合わせる気になってしまったのかもしれなかった。我ながら似合わないとは思うが、おれは昔から、星を見るのは好きなのだ。
「だったら、ここに来て、一緒に見ましょうよ」
「……ん、ああ、えっと」
「星を見るんでしょう?」
 半ば強引に、その男の子の隣に座らされてしまったおれは、改めて相手の顔を見た。三日月の鋭い光に浮かび上がったその子は、おれが今までに見た誰よりも色が白かった。月光のせいもあるかとは思ったが、それは元々持っている肌の質というよりかは、長年日光に当たらないで生きてきた人のものだった。加えて彼は、線が細かった。寒さ対策に、もこもことしたコートを着てはいたが、ちらりと覗いた首筋はか細く、あまりにも頼りない。
 こんな時刻に、一人で出歩いていて良いような人間ではなかった。
「なあ、その……、なんとか君」
 切り株の上に腰を下ろし、おれがそう話しかけると、男の子はクスリと笑った。
「面白い呼び方ですね。ぼくの名前はユズキです。ユズキ・ミカゲ」
「じゃあ、ユズキ君。君さ、何歳?」
「今年で十六歳になります」
「ってことは、今年で高校生?」
「はい」
 確かに、妥当な年齢だと思った。最初に聞こえた声を幼いと感じたのは、正しかったようだ。おれと一歳しか違わないが、この時期の人間にとって、一年というのは大きい。おれは、なるべく説教臭くならないように気を付けながら続けた。
「ユズキ君、それはつまり、まだ中学生ってことだろ。おれが思うに、中学生がこんな夜中にこんな所をうろついてたら危ないんじゃないかな。親御さんとか、気づいたら心配するだろ」
 もちろん、夜中に家を抜け出して徘徊しているおれに言えたことではないのは分かっている。だが、それでもこんな時間にこんな所に居合わせてしまった年長者として、言うべきことは言っておくべきだと思った。おれの言葉に、ユズキは少し躊躇したのち、言った。
「ばれたら確かにヤバいんですよね。……看護師さんには見つからないように出てきたんですけど」
「はあ? 看護師?」
 聞こえた単語に驚いて、おれは思わず声を上げた。それは、ユズキが病院から抜け出してきた入院患者である、ということを指し示していた。ということは、ユズキは何らかの病気持ちで、こんな冬の夜に椅子も無い場所で長時間座っていられるような身体ではないということだ。
「おいおいマジかよ。それは本気でヤバいって。どこの病院だ?」
 ポケットから携帯電話を取り出そうとするおれを、ユズキは慌てて制した。
「あ、あの。別にぼくは大丈夫なんです。もう来月には退院できるくらい回復しているんですから」
「んなこと言ったって……放っておけないだろ。おれの前で倒れられたら困るんだ」
「それは確かにそうですけど、でも……」
「でも、何だよ」
 ユズキはまたも躊躇う素振りを見せたが、思い切ったように言葉を吐き出した。
「来月には退院できるかどうか、それを決めるのが明後日の最終検査で……そこで、退院できるか、それとも一生病院の中で過ごすことになるのかが決まるんです。怖いんです。小さいころから病院と自宅を行ったり来たりでろくに学校にも行けなくて、病院にいる人たちとしか友達になれなくて。……いや、別にそれは良いんです。ぼくはそれより、退院して高校へ行くのが怖い。今まで触れたことのない世界に放り出されるのが怖い。病院の人たちはみんな優しくて、とても気が楽だった。そこから踏み出すのが怖いんです」
 言っていることは、なんとなく分かった。おれが高校に馴染めないのも、もしかしたらそういう気持ちがどこかにあるからなのかもしれないと思った。それまで築いてきた世界と全く違う世界というのは、怖い。中学を卒業してすぐにこちらに引っ越してきたおれには、その感覚はよく分かった。
「……だから、もしかしたら最後になるかもしれない今回の流星群を、抜け出して来てでも見ようと思ったんです。流れ星の一つでも見ることができれば、退院するにしてもできないにしても、勇気をもらえるような気がしたんです」
 話しているうちに感情が込み上げてきたのか、ユズキは泣いていた。おれの隣で、ひ弱な肩を震わせて、静かにしゃくり上げていた。
「ぼくは、星が好きです。あんな遠くにあるのに、ここまで光を届けてくれる。一瞬の光が、ずっとずっとぼくらを照らしてくれている。時間なんてたいしたものじゃなくて、人間なんてたいしたものじゃなくて、でも、だからこそ、ぼくらがここにこうしていられるというのは奇跡なんだって、思うことができるんです。だから、……」
 後は言葉になっていなかった。だが、何を言いたかったのかは痛いほど伝わった。おれは、ユズキの髪の毛をくしゃくしゃとかき回してやった。
「だから、一つだけでも流れ星が見たい。……そうだな?」
 おれの言葉に、ユズキはハッとしたように顔を上げた。
「はい。そうです」
 そして、涙で顔を濡らしながらも、にっこりと笑った。
 それからおれ達は、目を皿のようにして夜空を見上げ続けた。しまいには二人とも首が固まってしまったが、朝方四時ごろに、一筋の流れる光を見つけることができた。そこで、おれとユズキは笑顔の内に、それぞれの帰路を辿ったのだ。
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