秋子さんの秋刀魚

「えへへ、久しぶり」
 そう言って玄関先に現れたのは、秋子さんだった。相変わらず長い黒髪をさらさらと肩に垂らして、手には小さな鞄を持っている。照れたように笑うその顔は、一年前と何一つ変わらない。ただ違うのは、その華奢な左手薬指に光る――
「秋子さん。どうしたの」
 俺はそれまで寝ころがっていた畳から慌てて起き上がり、玄関まで歩いた。秋子さんは少し困ったように体の重心を右に移し、一拍置いてから答えた。
「ちょっと近くまで来たからさ。久しぶりにコウ君の顔を見たくなったの」
「そうなの? ……まあ良いや、母さん今日は少し遅くなるって言ってたけど、秋子さんがいてくれたら喜ぶだろうし、好きなだけ上がっていってよ」
 とりあえず秋子さんを居間に通して、俺は台所へ立った。確か、母さんが新しく買った緑茶葉があったはずだ。
「あ、お茶なら私が淹れるよ。昔からそうしてたじゃない」
「そうだけど……」
「いいからいいから」
 秋子さんは笑いながら歩き、戸棚から茶葉を取り出した。
「やっぱりここにしまってるんだ。一年くらいじゃ変わらないね」
「まあね」
 隣に立つ秋子さんの横顔を窺う。眼が赤い。
「コウ君はもう大学生なんだっけ。一人暮らし、しないの?」
 秋子さんは俺に背を向け、昨日までずっとしていた作業をするかのように、薬缶に水を入れ始める。俺はその、一年前よりもほんの少しだけふっくらとした後姿を眺めながら答える。
「大学、ここから二駅くらいなんだよ」
「ああ、近いんだ。そっか、それならそのほうが良いね」
「うん」
 ガス栓を捻りコンロに薬缶を置き、秋子さんは食器棚のほうへ舞い戻る。青緑色の急須を取り出し、また流しのほうへパタパタと歩く。その様は、ちっとも昔と変わらない。でも、昔とは違うのだ。
「秋子さんのほうはどうなの。旦那さんとはうまくやってる?」
 俺の何気ない言葉に、秋子さんは立ち止まった。急須を洗うために出していた水道水がシンクに跳ね、音を響かせる。
「秋子さん?」
「ん、ああ……うん、うまくやってるわよ」
「ふーん」
 これは、何かあったな。もしかしたら、今日ここに来たのも、旦那さんと喧嘩でもしたからかもしれない。そう思ったが、それを俺が口にできるはずもない。何も気づかなかったふりをして、俺はまた畳に寝ころがる。八畳の居間で一人きりになるのには慣れてきたのだが、やはり他の人間がいると、暖かい。しかも、それが秋子さんなのだ。
「お湯、なかなか沸かないなあ。ごめんコウ君、まだちょっと待っててね」
「あ、うん」
 台所から聞こえる秋子さんの言葉は、やっぱり柔らかい。耳に心地よいこの声が、俺は小さいころから大好きだった。
 秋子さんは、俺がまだほんの赤ん坊だったころから近所に住んでいた、親戚のお姉さんだ。母一人子一人の俺たちは何かと秋子さん一家に助けられていたのだが、秋子さんが中学生になってからは、それがより顕著になった。俺が小学校高学年になるころには、俺の弁当や朝食、夕食を作るのは秋子さんの仕事になっていた。秋子さんは自分が高校受験で忙しい時でも文句ひとつ言わず、好き嫌いの多い俺に一生懸命料理を作ってくれた。六年生になって、ようやく秋子さんに感謝しなくてはいけないことを理解した俺に、彼女は笑って言ったのだ。「コウ君のおかげで料理が上達して、お母さんに褒められたのよ」、と。俺は、そんな秋子さんのことが大好きだった。母さんは仕事で忙しいし、兄弟姉妹はいない。だから、いつも一人で留守番していなくてはならなかった俺にとって、五歳違いの秋子さんの存在は大きかった。同年代の友達よりおとなしい性格になったのも、きっとその影響だろうと思う。秋子さんは、俺にとって実の姉も同然だった。
「あ、そうだ」
 薬缶が音を立てる直前で火を止めて、秋子さんが、何かを思いついたように声をあげた。
「今日お母さんが遅いんだったら、私が夕食作ってあげようか」
「えっ……でも、悪いよ。ちょっと寄っただけなんでしょ」
「良いのよ」
 笑顔で言いきられてしまい、俺はそれ以上反対することはできなかった。それに、久しぶりに秋子さんの手料理を食べることができるのは、やはり嬉しかった。
「はい、お茶どうぞ」
「あ、ありがとう……ございます」
 湯呑を受け取って頭を下げる。秋子さんは楽しそうに笑った。
「どうして急にかしこまるのよ」
「いや、なんとなく……」
「変なコウ君」
 俺は顔が火照るのを感じながら、とりあえず身を起こした。居間に一つだけ置いてある机に向かい、湯呑に口をつける。秋子さんは再び台所のほうへ行き、冷蔵庫を開けた。中に首を突っ込んでガサゴソと音を立てている。
「うーん、そうだねえ。あんまり材料が無いなあ」
「今日はコンビニ弁当で済ませようと思ってた」
「それは駄目だよ、栄養が偏っちゃうから」
「分かってるけどさ」
 秋子さんは進学した大学で栄養学を学んでいた。栄養士の資格も持っている。しかし、栄養士として働くことなく、今の旦那さんと結婚したのである。
 秋子さんの旦那さんは幸せ者だ。栄養のバランスに見た目、それに味も完璧な、秋子さんの料理を毎日食べることができるのだから。
「コウ君、何か食べたいもの、ある?」
 冷蔵庫を閉めて、秋子さんが問う。
「食べたいものかあ」
 改めて問われると、何を食べたいのか分からなくなるものだ。俺はお茶を啜り、低い天井の木目模様を見つめた。一年前まで秋子さんが作ってくれていた料理の数々を思い出す。鶏肉とごぼうの炒め物、チンジャオロース、カレー、秋子さんオリジナルドレッシングのかかったサラダ、グラタン、……。
 秋子さんが自分の湯呑を持って、俺の隣に座る。俺の答えを待っている気配がする。その時、一つの料理が頭の中に浮かび、俺は小さく叫んだ。
「あ」
「なになに?」
 秋子さんが身を乗り出す。
「秋刀魚……秋刀魚が食べたい」
 そう、ちょうど今時期、秋の深まるこの季節になると、秋子さんはいつも秋刀魚を焼いてくれた。学校から帰って来て最初に吸った空気の香ばしさを、今でも鮮明に思い返すことができる。
 しかし俺の言葉に、秋子さんは首を傾げた。
「秋刀魚かあ。もっと手の込んだものでも全然構わないんだけど……本当に良いの?」
 俺の顔を覗き込む秋子さんに、俺は力強く肯いて見せた。
「秋子さんの秋刀魚は最高だから」
「……そっか。了解」
 秋子さんは一つ肯くと、緑茶をぐいっと一気に飲み干した。それを置くと、畳に丸めてあったジャケットを羽織り、鞄を手にした。
「それじゃあ買い物、行ってくるね。美味しそうな秋刀魚をゲットしてくるから」
「あ、俺も一緒に行くよ」
「良いから良いから。昔からコウ君は買い物についてなんて来なかったでしょ。今更ついて来られると変な感じがするよ」
「そ、そう……分かった。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 秋子さんは朗らかに笑い、買い物へ出かけて行った。
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