吾輩の愛すべき探偵

 と、その時、部屋のドアが勢い良く開かれ、一人の少女が入ってきた。セーラー服とかいうらしい衣服を着た、長い黒髪の少女である。吾輩は開かれたドアに潰されないように、慌てて窓際まで避難した。
「おはようございまーす」
 少女は少女らしい声で挨拶をし、庭の机の傍へ駆け寄った。
「おはよう、夕虹ゆうにじちゃん」
 庭は笑顔で彼女に声をかけた。彼女は星見夕虹、空彦の妹である。空彦は夕虹を見て、呆れたような顔をした。
「なんだ夕虹、また来たのか」
「うん。そろそろ庭さんの食糧備蓄、尽きる頃かと思って」
 言いながら夕虹が学生鞄から取り出したのは、食糧を入れて密封保存できる容器だった。五つほどあるようだ。庭は瞳を輝かせてそれを受取り、早速中身を物色し始めた。
「ほうほう、これは春巻きだね。これはほうれん草の御浸し……ああっこれは鶏の唐揚げじゃないかっ」
「庭さん、お好きでしたよね。頑張って昨日の夜、作ってきちゃいました」
 そう言う夕虹の手を、机を挟んでしっかと握り、庭は夕虹の顔を覗き込んだ。
「有難う……! 本当に、君は良いお嫁さんになるよ」
「喜んでもらえて良かったです」
 夕虹は照れたように笑う。空彦は心底呆れたようにそれを眺めている。
「夕虹、そんなことしなくても、庭にはおれが弁当を買ってきてやってるから、良いんだぞ」
「でもお兄ちゃん、コンビニのお弁当じゃあやっぱり栄養のバランスが良くないと思う。私、料理好きだから全然大変じゃないし」
「そうか……?」
 空彦はそれでも心配そうに夕虹を見つめていたが、急に立ち上がった庭が二人の間に立ち入り、その視線を切ってしまった。庭は夕虹の腰まである髪の毛を持ち上げ、その手触りを確かめ始めた。
「庭さん?」
 夕虹が不思議そうに、庭の行動を見ている。庭はひとしきり夕虹の髪の毛を触ってから、愛おしそうに夕虹の頭を撫でた。
「夕虹ちゃん、君の髪の毛は本当に美しいね。それに、よく真っ直ぐに伸びている」
「えっ、あっ、有難う御座います……」
「君がここに来るようになってからもう一年ほど経つけれど、ここまで伸びていたことは無かったんじゃないのかな」
「あ、そ、そうかもしれません……ちょっと伸びると邪魔になって、切っちゃってたから……」
 夕虹は褒められて嬉しいのと恥ずかしいのとで、顔を真っ赤にさせて答えた。庭はにっこりと笑った。
「でも、よくここまで伸ばしたね。それも、こんなに綺麗に」
「あ、それは、その……前に庭さんが、腰まで伸びた綺麗な黒髪の女性を見てみたい、って、言ってたから……」
 しどろもどろになりながらそう言う夕虹に、庭はますます嬉しそうな笑顔になった。
「覚えていてくれたんだね。夕虹ちゃんは良い子だ。流石は空彦クンの妹さんだよ」
「い、いえそんな」
「庭、そんなに夕虹を褒めたら調子に乗るぞ。こいつ、只でさえお調子者なのに」
 空彦が言うと、庭は「はーい」と両手を上げて、また椅子まで戻った。
「ところでね。私は今、こっそりミステリ小説を書いているんだよ」
 庭は組んだ両手の甲に顎を乗せ、星見兄妹を見上げた。兄と妹は揃って顔に疑問符を貼り付け、庭を見つめる。
「今考えてるシナリオではね、君のような美しい髪の毛を持った少女が、殺されてしまうんだ」
 ぞっとしたのか、夕虹は少し身を引いた。しかし、流石に冗談と受取ったのだろう、すぐに空彦と共に笑った。
「庭さんってば、またそんなこと言って……私とお兄ちゃんを怖がらせようったって、そうはいきませんよ」
「そうだぞ、庭。お前の冗談は昔から性質が悪いから嫌いだ」
 庭は二人の言葉に静かに笑った。
「そうだね。悪かった。変なことを言ったね」
「良いですよ」
 夕虹は気を取り直したように笑い、両手を振った。
「しかし夕虹、今は街が物騒だから、あまりこんなひと気の無いところをうろつくんじゃない。危ないぞ。さっさと学校に行け」
「学校に行くにはまだ早いよ、お兄ちゃん。それに私なら大丈夫。一応学校で護身術を習ってきてるから」
「そんなモノ……」
 空彦は眉を顰めて続けようとしたが、庭がそれを遮った。
「街が物騒、というのはどういうことだい」
「ああ、……ここには新聞もテレビも無いもんな。この頃、この街で何件か殺人事件が起きているんだ」
「殺人事件?」
「庭さんも探偵さんだし、犯人を捕まえられるんじゃないですか。謎のメッセージの解読とかも、できちゃったりしそう」
 夕虹が声を弾ませる。庭はぴくりと反応し、夕虹を見つめた。
「謎のメッセージ?」
「ええ。今までに起きた殺人事件は三件なんですが、そのどれもに、死んだ人の血液で、何かメッセージが残されていたそうなんです。警察は詳しく発表していないけれど……」
「ふうん」
「庭さん、調べたりしないんですか?」
 夕虹は興味津々といった顔で庭を見つめるが、庭はただ微笑むばかりだ。空彦は肩をすくめた。
「あのなあ夕虹。この探偵事務所は、そんな殺伐とした事件を調べるために作ったわけじゃあないんだ」
「じゃあ、何のためにつくったの?」
「あー、それは、だな」
 空彦が空中に目を泳がせると、庭がその先を続けた。
「事件というものに、少しでも近く在りたくて、この事務所を作ったのだよ。だから、私は殺人事件にも興味がある」
 その言葉に、空彦は嫌そうな顔をして首を振った。
「おれはごめんだぜ。そんな危ないことに首を突っ込みたくなんてない」
「もちろん、空彦クンが嫌がるなら強制はしないさ」
 請合うような笑みで、庭は言った。それでこの話題についてはおしまいとなったようだった。
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