ブラック
付き合い始めてひと月ほどの先輩は、俺の顔を好きだと何度も言った。
誰でもそう言う。
健康的とは程遠い色の白さも、髪と目の暗さも、薄い唇も、鼻筋も。俺を好きだという人間は、全て好きだと言う。そして、それを欲しがる。自分のものにしようとする。
別に、それでいい。将来的な人脈に繋がる、よい関係性を保てさえすれば。俺は、それで。
今まで交際した相手とは、だいたいは円満に別れることができた。そもそも俺の見た目だけが好きな連中だ。初めから深い交流など求めてはいなかったし、向こうだってそうだった。ただ、俺の髪を、目を、鼻を、唇を、耳を、そして体を愛でて、満足して去っていった。
ただ、中には俺との別れが不本意だった人間もいたらしい。気がつけば同学年の生徒達の間で、俺に関する悪い噂が蔓延していた。
別に、どうでもよかった。子供じみた嫉妬と嫌悪に付き合う気はなかった。俺がこの学校で必要としているのは良質な授業とエリート候補達との繋がりであって、生涯にわたる友情とか楽しい学校生活とかなんてものではない。
そう、思っていた。あいつに会う前は。
新しい学年の授業が始まる前日、早めに部屋に到着して準備を整えた俺は、窓際で本を読んでいた。同室になるのはどうせ、幼稚さの抜けきらない、くだらない奴に決まってる。悪い噂が流れるようになってからというもの、同室になるのはそういう奴ばかりだった。よくて無関心、悪くて程度の低い嫌がらせを仕掛けてくる、そういう奴らだ。
なのに、ドアを開けて入ってきたのは、天使だった。
「こんにちは。今日から同室のホワイトです」
声が、既に違った。
周りの空気をぱっと明るくするような、華やかさとはまた違う、穏やかで芯のある声。その声に耳を奪われて、次に、その表情に目を奪われた。綺麗な青い瞳は、俺の背後から差す陽の光を受けてきらめいていた。自然な、しかしどこか緊張も含んだ笑顔が、俺を見た途端、夢でも見るかのようにふわりとした柔らかいものに変わった。
俺は、初めて誰かに心から歓迎された。
ルームメイト、なんてものは、寮生活における面倒な付属品に過ぎなかったのに。俺はこのとき、ホワイトのルームメイトになれたことが嬉しかった。
「初めまして、俺はブラック。どうぞよろしく、ホワイト」
握った手は柔らかく、その心を表しているかのようだった。その第一印象は、共に過ごすうちに弱まるどころか、逆に強まっていった。
音楽院の話なんて、教師以外には初めて話した。それも、会ったその日に、だ。
ホワイトには不思議な力がある。本人は全く自覚していないようだが、その身に纏う雰囲気は、誰もを温かく受け入れるものだ。この俺でさえ……交際相手と肌を重ねるときにも気を許したことのない俺でさえ、ホワイトの前では無防備でいられる。それはホワイトの、ある意味弱い部分が成せる技とも言えるが……しかし紛れもなく、長所だろう。
だから、ホワイトの周りにはいつも人がいる。あいつを慕い、その人柄に惹かれた人間たちが。そしてそれらは、ホワイトとは正反対の俺のことを、忌み嫌うような連中でもある。
だから、無邪気なホワイトが俺の噂を知ることになるのも時間の問題だろうとは思っていた。嫌いな人間を同じように嫌ってくれる相手を見つけたり作ったりすることがひとつの楽しみになっているような奴も、この世にはたくさんいる。そういう意味でなくとも、ホワイトに俺のような人間を近づけたくないと思う奴も、きっといるだろう。
部屋に戻ってきたホワイトの顔色が悪かったとき、きっとそういうことだろうと思った。きっと、俺の噂を聞いて……そして、俺のことを嫌いになってしまったのだろうと。いつもなら今日あったエピソードを楽しそうに話してくれるのに、俺が話しかけても目を逸らして、すぐに机に向かってしまったところからも、その思いは強まった。
ああ、これで終わりか。
もしかしたら、この一年は楽しい学校生活なんてものを送れるのかもしれないと、そう思ったのに。きっとホワイトは、どこぞの誰かに吹き込まれた話を信じ込んで、俺と距離を開けるようになるのだろう。
予想通りじゃないか。
こんなに白くてきれいな人間が、俺なんかのことを信じようとしてくれる筈がなかったのだ。そんなこと、初めから分かっていたじゃないか。
でも、これは予想外だった。……ホワイトに嫌われたかもしれないと思うことが、こんなにも自分の胸に穴を開けることになるなんて。
そんなことを思っていたときだった。ホワイトがいつもと変わらぬ笑顔で、今度マッサージをお願いすると言ってくれたのは。
嫌われたわけではなかった。
心の底から、ホッとした。そして気がついた。
ホワイトの存在は俺の中で、知らない間にこんなにも大きくなっていたのだ。
初めてできた、本当に気を許せる相手。共に青春を送りたいと思える、ルームメイト。
もう二度と出逢えないであろう、奇跡的な白。
それからしばらく経った日の昼休み、いつものように先輩と会い、その口づけを受けていたとき、ホワイトが現れた。まさかこんなときに戻ってくるなんて思ってもいなくて、先輩を逃しながら、俺は泣きたくなった。
言い訳なんてできない。俺の噂を知っている筈のホワイトを納得させられる言い訳なんて。
どうせ嫌われるなら。そんな思いが、俺を駆り立てたのだと思う。
口から出た言葉は、自分でも意識していなかった本音だった。その心根の美しさを表すような輝く金髪、純心さを失わない華奢な体、俺を見る目、歌うように言葉を紡ぐ唇、その全てが、俺の心を明るく照らしてくれていたのだ。
「ホワイト、お前も俺のことが好きだろ?」
これは確信ではなかった。ただの願望だ。そうあって欲しいと、そうであってくれたらどんなにいいかと、そんな、ただの願望だった。
ヤケになっていたのだろう。どんなときでも冷静でいるように心がけていた、この俺が。どうせ嫌われるなら、ホワイトに罪悪感のようなものを抱かせないように、とことんまで嫌われようと……だから、あんな真似をした。
もっと違う形で、あの唇を奪いたかった。突然のことに抵抗できなかったホワイトの、確かに俺の行為に反応していたあの顔を思い出すと、今でも体が熱くなる。
けれど、仕方ない。もう二度と、あの白は俺の手には戻らない。軽蔑され、失望され、嫌われた。
「誰にでもこんなことするの」
する訳がない。あんな……あんな口づけ。
俺の腕をすり抜けて、ホワイトは出て行った。閉まったドアを暫くの間見つめながら、俺は胸の穴をどう埋めるべきか考えた。
俺のことを、一度は疑い、それでも信じようとしてくれたホワイトを……完全に裏切った。もう、同じ部屋にいることもできない。
授業が始まる前に寮長に直談判して、部屋替えを承諾させた。元々俺の素行について聞いていたのだろう、寮長はむしろホッとしたように、俺の提案を受け入れた。何人もの学生が共同生活する場所では、人間関係の悪化による部屋替えは珍しいことではない。
「しかし、君はそれでいいのか」
いつも穏やかな寮長は、眉根を寄せて俺に尋ねた。
「彼のお陰か、最近の君は……」
「いや、いいんです。だって、そのホワイトと喧嘩をしたんですよ、俺は。きっと、絶対に許してくれないでしょう」
きっと寮長は、俺の言葉を完全には信用していない。だが、最終的には学校側に申請してくれることとなった。
「私は、ホワイトとなら、きっと大丈夫だろうと……思ったんだが」
「期待を裏切ってすみません」
部屋に戻り、手早く荷物をまとめる。ここ最近開いてもいなかったバイオリンケースを持ち出すとき、ホワイトの言葉が思い出されて、足が止まった。
よかったら今度、聴かせてくれないか。
……もう二度と、あいつの前で演奏することもあるまい。俺は、まだホワイトの荷物の残る部屋を後にした。
誰でもそう言う。
健康的とは程遠い色の白さも、髪と目の暗さも、薄い唇も、鼻筋も。俺を好きだという人間は、全て好きだと言う。そして、それを欲しがる。自分のものにしようとする。
別に、それでいい。将来的な人脈に繋がる、よい関係性を保てさえすれば。俺は、それで。
今まで交際した相手とは、だいたいは円満に別れることができた。そもそも俺の見た目だけが好きな連中だ。初めから深い交流など求めてはいなかったし、向こうだってそうだった。ただ、俺の髪を、目を、鼻を、唇を、耳を、そして体を愛でて、満足して去っていった。
ただ、中には俺との別れが不本意だった人間もいたらしい。気がつけば同学年の生徒達の間で、俺に関する悪い噂が蔓延していた。
別に、どうでもよかった。子供じみた嫉妬と嫌悪に付き合う気はなかった。俺がこの学校で必要としているのは良質な授業とエリート候補達との繋がりであって、生涯にわたる友情とか楽しい学校生活とかなんてものではない。
そう、思っていた。あいつに会う前は。
新しい学年の授業が始まる前日、早めに部屋に到着して準備を整えた俺は、窓際で本を読んでいた。同室になるのはどうせ、幼稚さの抜けきらない、くだらない奴に決まってる。悪い噂が流れるようになってからというもの、同室になるのはそういう奴ばかりだった。よくて無関心、悪くて程度の低い嫌がらせを仕掛けてくる、そういう奴らだ。
なのに、ドアを開けて入ってきたのは、天使だった。
「こんにちは。今日から同室のホワイトです」
声が、既に違った。
周りの空気をぱっと明るくするような、華やかさとはまた違う、穏やかで芯のある声。その声に耳を奪われて、次に、その表情に目を奪われた。綺麗な青い瞳は、俺の背後から差す陽の光を受けてきらめいていた。自然な、しかしどこか緊張も含んだ笑顔が、俺を見た途端、夢でも見るかのようにふわりとした柔らかいものに変わった。
俺は、初めて誰かに心から歓迎された。
ルームメイト、なんてものは、寮生活における面倒な付属品に過ぎなかったのに。俺はこのとき、ホワイトのルームメイトになれたことが嬉しかった。
「初めまして、俺はブラック。どうぞよろしく、ホワイト」
握った手は柔らかく、その心を表しているかのようだった。その第一印象は、共に過ごすうちに弱まるどころか、逆に強まっていった。
音楽院の話なんて、教師以外には初めて話した。それも、会ったその日に、だ。
ホワイトには不思議な力がある。本人は全く自覚していないようだが、その身に纏う雰囲気は、誰もを温かく受け入れるものだ。この俺でさえ……交際相手と肌を重ねるときにも気を許したことのない俺でさえ、ホワイトの前では無防備でいられる。それはホワイトの、ある意味弱い部分が成せる技とも言えるが……しかし紛れもなく、長所だろう。
だから、ホワイトの周りにはいつも人がいる。あいつを慕い、その人柄に惹かれた人間たちが。そしてそれらは、ホワイトとは正反対の俺のことを、忌み嫌うような連中でもある。
だから、無邪気なホワイトが俺の噂を知ることになるのも時間の問題だろうとは思っていた。嫌いな人間を同じように嫌ってくれる相手を見つけたり作ったりすることがひとつの楽しみになっているような奴も、この世にはたくさんいる。そういう意味でなくとも、ホワイトに俺のような人間を近づけたくないと思う奴も、きっといるだろう。
部屋に戻ってきたホワイトの顔色が悪かったとき、きっとそういうことだろうと思った。きっと、俺の噂を聞いて……そして、俺のことを嫌いになってしまったのだろうと。いつもなら今日あったエピソードを楽しそうに話してくれるのに、俺が話しかけても目を逸らして、すぐに机に向かってしまったところからも、その思いは強まった。
ああ、これで終わりか。
もしかしたら、この一年は楽しい学校生活なんてものを送れるのかもしれないと、そう思ったのに。きっとホワイトは、どこぞの誰かに吹き込まれた話を信じ込んで、俺と距離を開けるようになるのだろう。
予想通りじゃないか。
こんなに白くてきれいな人間が、俺なんかのことを信じようとしてくれる筈がなかったのだ。そんなこと、初めから分かっていたじゃないか。
でも、これは予想外だった。……ホワイトに嫌われたかもしれないと思うことが、こんなにも自分の胸に穴を開けることになるなんて。
そんなことを思っていたときだった。ホワイトがいつもと変わらぬ笑顔で、今度マッサージをお願いすると言ってくれたのは。
嫌われたわけではなかった。
心の底から、ホッとした。そして気がついた。
ホワイトの存在は俺の中で、知らない間にこんなにも大きくなっていたのだ。
初めてできた、本当に気を許せる相手。共に青春を送りたいと思える、ルームメイト。
もう二度と出逢えないであろう、奇跡的な白。
それからしばらく経った日の昼休み、いつものように先輩と会い、その口づけを受けていたとき、ホワイトが現れた。まさかこんなときに戻ってくるなんて思ってもいなくて、先輩を逃しながら、俺は泣きたくなった。
言い訳なんてできない。俺の噂を知っている筈のホワイトを納得させられる言い訳なんて。
どうせ嫌われるなら。そんな思いが、俺を駆り立てたのだと思う。
口から出た言葉は、自分でも意識していなかった本音だった。その心根の美しさを表すような輝く金髪、純心さを失わない華奢な体、俺を見る目、歌うように言葉を紡ぐ唇、その全てが、俺の心を明るく照らしてくれていたのだ。
「ホワイト、お前も俺のことが好きだろ?」
これは確信ではなかった。ただの願望だ。そうあって欲しいと、そうであってくれたらどんなにいいかと、そんな、ただの願望だった。
ヤケになっていたのだろう。どんなときでも冷静でいるように心がけていた、この俺が。どうせ嫌われるなら、ホワイトに罪悪感のようなものを抱かせないように、とことんまで嫌われようと……だから、あんな真似をした。
もっと違う形で、あの唇を奪いたかった。突然のことに抵抗できなかったホワイトの、確かに俺の行為に反応していたあの顔を思い出すと、今でも体が熱くなる。
けれど、仕方ない。もう二度と、あの白は俺の手には戻らない。軽蔑され、失望され、嫌われた。
「誰にでもこんなことするの」
する訳がない。あんな……あんな口づけ。
俺の腕をすり抜けて、ホワイトは出て行った。閉まったドアを暫くの間見つめながら、俺は胸の穴をどう埋めるべきか考えた。
俺のことを、一度は疑い、それでも信じようとしてくれたホワイトを……完全に裏切った。もう、同じ部屋にいることもできない。
授業が始まる前に寮長に直談判して、部屋替えを承諾させた。元々俺の素行について聞いていたのだろう、寮長はむしろホッとしたように、俺の提案を受け入れた。何人もの学生が共同生活する場所では、人間関係の悪化による部屋替えは珍しいことではない。
「しかし、君はそれでいいのか」
いつも穏やかな寮長は、眉根を寄せて俺に尋ねた。
「彼のお陰か、最近の君は……」
「いや、いいんです。だって、そのホワイトと喧嘩をしたんですよ、俺は。きっと、絶対に許してくれないでしょう」
きっと寮長は、俺の言葉を完全には信用していない。だが、最終的には学校側に申請してくれることとなった。
「私は、ホワイトとなら、きっと大丈夫だろうと……思ったんだが」
「期待を裏切ってすみません」
部屋に戻り、手早く荷物をまとめる。ここ最近開いてもいなかったバイオリンケースを持ち出すとき、ホワイトの言葉が思い出されて、足が止まった。
よかったら今度、聴かせてくれないか。
……もう二度と、あいつの前で演奏することもあるまい。俺は、まだホワイトの荷物の残る部屋を後にした。