水泳少年

 足が、動かなかった。
 どんなに努力しても、少年の足は、動かない。
「ああ、あの子が……、そうなのよ。可哀想にねぇ」
「何でも水泳の才能があったそうじゃないの。大会に向けて一生懸命練習してたらしいのに、残念ね」
 少年はとぼとぼと、車椅子で、堂々とひそひそ話をしている主婦の横を通り抜けた。少年自身、その交通事故は残酷だったと思っている。でも、そんなことを他人にまで言われたくはない。自分で思うだけでも、心が沈むというのに。
 少年は、水の音に敏感になった。ちゃぱちゃぱ、でも、ちょぼちょぼ、でも、それが水音であればすかさずそちらのほうを見て、確認した。自分はもう泳げないと知っているのに。水があっても、入ってはいけないというのに。
 それでも彼は、雨が降れば窓の外を飽きずに見つめ、風呂の中でクロールの手付きをしてみたりなどするのだった。それは、泳ぎに対する未練だった。水に対する執着だった。
 泳ぎたい。水に入りたい。気の済むまで、水の中で過ごしたい。
 気がつくと、彼は四六時中泳ぐことばかりを考えていた。到底叶わぬ願いを追い続ける事は、良くない。彼は勉強に打ち込むことで気を紛らそうとしたが、それもなかなか上手くいかなかった。

 そんな日常が続いて、一年。ある日、彼は日課の散歩に出かけていた。雲行きが少し怪しかったが、雨は降らないという予報だったので、とりあえず折りたたみ傘だけ持って、彼は出かけた。車椅子の操作も慣れたもので、彼は通いなれた道を一人でたどっていた。一時間ほどそうしていたろうか。
 ぽつん。
 最初の一粒が彼の額で弾けると、すぐに、滝のような雨が降りそそいできた。彼は急いで傘を開いたが、そんなものは役に立たないくらい、その雨の勢いは凄まじかった。みるみるうちに彼はずぶぬれになり、体が冷えてゆく。
 彼は傘を諦めて、もと来た道を急いだ。やがて、川の近くまで差し掛かったとき、彼の歩みは急にのろくなった。彼の目は、水かさを増しうねり流れる水に釘付けになった。

「――――」

 彼は傘を放り出した。
 彼は、車椅子を岸辺まで操った。そして、思い切って自身を車椅子から地上へと投げ出した。青臭い草と土の匂いが、鼻を突く。
 彼は土を掴みながら上体を起こし、川を見下ろした。
 水。
 それは、水の集合体だった。それも、いつもとは違い、奔放に踊るような流れ方をしている。自分を呼んでいる――そう、彼には思えた。
 彼は目を瞑らなかった。ただ、笑って、水の中へと飛び込んでいった。足なんてモノは、彼には不必要だった。押し寄せる波に体を任せ、彼は一年振りに泳いだ。息ができなくても、目を開けていられなくなっても、彼は笑っていた。

 やがて眠るように意識を手放した時、彼は小さな竜になり、空高く飛んでいった。
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