涙
「先輩先輩、ちょっと待ってください」
「どうして」
「だって、……」
ずんずんと歩く俺の腕に、海空がすがりつく。
「ちょっと落ち着いてください」
「だからっ! どうして落ち着けるって言うんだよ!」
「先輩……。僕は良いんです、気にしてません。だから、先輩がそんなに怒らなくても」
「どうして気にしてないなんて言えるんだよ!」
俺は立ち止まり、勢い良く振り向いて、海空を見た。
「…………っ!」
そこにいたのは、真冬の影を背負った弟ではなかった。毅然とした視線で、俺を真っ直ぐに見つめているのは。
「桂井……」
「先輩……僕は、……」
言葉を飲み込むように止め、海空は俺を見つめ。
「先輩……」
そう言って。真冬とは違う声で、そう俺を呼んで。
見ているこちらが切なくなるほどの哀しげな顔で――くるりと方向転換し、大学の廊下を、駆け去ってしまった。
「あ、ちょ……っ、桂井!」
しかし、俺の足は海空を追いかけることを拒否していた。それよりも何よりも、まずしなくてはいけないことがある。海空を人に襲わせたあいつの頬を、ぶん殴る――。
「くっそ……」
俺は海空の小さな背中から目をそらし、再び歩き始める。すれ違う大学の生徒が、左右に寄って、俺に道を開ける。それほど、今の俺の表情には鬼気迫るものがあったのだろう。
やがて、目的の部屋までたどり着いた。『フリーーーーダム』、と間の抜けた字で書かれた表札がかかっている、小さな部屋。俺はその扉を壊しかねない勢いで開け、驚いてこちらを見ているサークルのメンバーの顔を確認していく。そして、その中でも一際緊張した面持ちで俺を見ている境井を発見する。
「境井!」
「よ、よぉ……どした? 何か荒れてるけど……」
青ざめた顔の境井を壁に追いやり、その耳のすぐ横に、拳を叩きつける。ひいっ、と境井は身をすくませる。
「な、何だよお前……。どうして」
「何がどうしてだ。お前、桂井を襲わせただろう!」
「襲わせた……?」
境井はうろたえ、俺の表情を窺う。
「襲わせてなんかいない……オレはただ、桂井に、お前から離れるように説得するつもりで――、あいつらにもそう言っておいたはず……」
「だから! 何なんだよそれ? どうして桂井を、俺から引き離そうとする? お前、俺が真冬のことをひきずってるの、分かってただろ? だから放っておいてくれてると思ってたのに……」
俺は混乱し、怒鳴るつもりだった台詞も、弱弱しくしか口から出てこなかった。親友に裏切られた。その悔しさと情けなさで、頭の中が一杯だった。
「き、聞いてくれよ。あのな、オレだって最初は、お前が真冬の面影を追って、それで桂井をサークルに誘ったことを、お前の自由だからと思って、そっとしておくつもりだったさ。でもな……、オレ、桂井に相談されちまったんだよ」
「相談……?」
俺に話さずに、境井に相談するような相談事とは、一体何だ?
境井は苦しげに、言葉を放った。
「桂井、お前のことを好きになっちまったらしい」
「な――」
頭が真っ白になる、というのは、こういうことなのか、と俺は実感する。
「な……なんだよ、それ。好きになる、っていうのは、それはつまり、俺を……」
「恋愛対象として、お前を見ているっていうことだよ」
「……そんな、そんなことって――」
俺はふらふらと、境井から離れる。境井も顔を歪ませて、俺を見る。
「な? 桂井がそのままお前に気持ちを伝えたら、お前がそうなるってのは分かってたんだ。オレとお前の付き合いは長いからな。……いやだろ、そういうの」
境井は哀れむように俺を見ている。俺は思考が整理できず、ただ首を振り続ける。
「違う……。俺は、あいつにそういう風に思って欲しかったわけじゃ……」
「だから、人に頼んで、桂井を説得しようと思ったんだ。お前はただ、桂井の中に真冬ちゃんを見ていたかっただけだ。それ以上の何かを欲していたわけじゃない。それは、オレがよく知っている」
「う……」
境井は、俺に手を差し伸べる。その手にすがれば、……でも、そうしてどうなる? 俺は、何をしたいんだ。
桂井。
桂井真冬。桂井海空。
俺は。
「俺は――……」
そうして俺は、部屋を出て、また走り出した。
「どうして」
「だって、……」
ずんずんと歩く俺の腕に、海空がすがりつく。
「ちょっと落ち着いてください」
「だからっ! どうして落ち着けるって言うんだよ!」
「先輩……。僕は良いんです、気にしてません。だから、先輩がそんなに怒らなくても」
「どうして気にしてないなんて言えるんだよ!」
俺は立ち止まり、勢い良く振り向いて、海空を見た。
「…………っ!」
そこにいたのは、真冬の影を背負った弟ではなかった。毅然とした視線で、俺を真っ直ぐに見つめているのは。
「桂井……」
「先輩……僕は、……」
言葉を飲み込むように止め、海空は俺を見つめ。
「先輩……」
そう言って。真冬とは違う声で、そう俺を呼んで。
見ているこちらが切なくなるほどの哀しげな顔で――くるりと方向転換し、大学の廊下を、駆け去ってしまった。
「あ、ちょ……っ、桂井!」
しかし、俺の足は海空を追いかけることを拒否していた。それよりも何よりも、まずしなくてはいけないことがある。海空を人に襲わせたあいつの頬を、ぶん殴る――。
「くっそ……」
俺は海空の小さな背中から目をそらし、再び歩き始める。すれ違う大学の生徒が、左右に寄って、俺に道を開ける。それほど、今の俺の表情には鬼気迫るものがあったのだろう。
やがて、目的の部屋までたどり着いた。『フリーーーーダム』、と間の抜けた字で書かれた表札がかかっている、小さな部屋。俺はその扉を壊しかねない勢いで開け、驚いてこちらを見ているサークルのメンバーの顔を確認していく。そして、その中でも一際緊張した面持ちで俺を見ている境井を発見する。
「境井!」
「よ、よぉ……どした? 何か荒れてるけど……」
青ざめた顔の境井を壁に追いやり、その耳のすぐ横に、拳を叩きつける。ひいっ、と境井は身をすくませる。
「な、何だよお前……。どうして」
「何がどうしてだ。お前、桂井を襲わせただろう!」
「襲わせた……?」
境井はうろたえ、俺の表情を窺う。
「襲わせてなんかいない……オレはただ、桂井に、お前から離れるように説得するつもりで――、あいつらにもそう言っておいたはず……」
「だから! 何なんだよそれ? どうして桂井を、俺から引き離そうとする? お前、俺が真冬のことをひきずってるの、分かってただろ? だから放っておいてくれてると思ってたのに……」
俺は混乱し、怒鳴るつもりだった台詞も、弱弱しくしか口から出てこなかった。親友に裏切られた。その悔しさと情けなさで、頭の中が一杯だった。
「き、聞いてくれよ。あのな、オレだって最初は、お前が真冬の面影を追って、それで桂井をサークルに誘ったことを、お前の自由だからと思って、そっとしておくつもりだったさ。でもな……、オレ、桂井に相談されちまったんだよ」
「相談……?」
俺に話さずに、境井に相談するような相談事とは、一体何だ?
境井は苦しげに、言葉を放った。
「桂井、お前のことを好きになっちまったらしい」
「な――」
頭が真っ白になる、というのは、こういうことなのか、と俺は実感する。
「な……なんだよ、それ。好きになる、っていうのは、それはつまり、俺を……」
「恋愛対象として、お前を見ているっていうことだよ」
「……そんな、そんなことって――」
俺はふらふらと、境井から離れる。境井も顔を歪ませて、俺を見る。
「な? 桂井がそのままお前に気持ちを伝えたら、お前がそうなるってのは分かってたんだ。オレとお前の付き合いは長いからな。……いやだろ、そういうの」
境井は哀れむように俺を見ている。俺は思考が整理できず、ただ首を振り続ける。
「違う……。俺は、あいつにそういう風に思って欲しかったわけじゃ……」
「だから、人に頼んで、桂井を説得しようと思ったんだ。お前はただ、桂井の中に真冬ちゃんを見ていたかっただけだ。それ以上の何かを欲していたわけじゃない。それは、オレがよく知っている」
「う……」
境井は、俺に手を差し伸べる。その手にすがれば、……でも、そうしてどうなる? 俺は、何をしたいんだ。
桂井。
桂井真冬。桂井海空。
俺は。
「俺は――……」
そうして俺は、部屋を出て、また走り出した。