涙
海空は中身の少なくなってしまった缶ジュースを振り、ぼーっと机を見つめている。俺は、そんな海空の中から、真冬の面影を探る。――色白な顔。目にかかりそうな、さらさらの前髪。形の整った小さな鼻が、少し上向いているところが、また真冬とそっくりだ。薄い唇は健康そうな桃色で、意識していなくても、笑みの形に近い。頬には少しだけ赤みが差していて、蒼白から遠ざける役目を担っているようだ。
そして、その瞳。
髪の茶色をもっと濃くしたような色をしている。光点を星のように散りばめた――その中に美しい銀河でもあるかのように――、その大きな瞳を伏せると、光が揺らぎ、水でもたたえているような深みが見え隠れする。それを縁取るのが、長い睫毛。ひょっとすると真冬のそれよりも長いかもしれない。
「先輩? 僕の顔なんかじっと見ても、何もありませんよ」
「ああ、うん。悪い」
俺は決まり悪く、もう空になった缶を取り上げ、立ち上がった。
「ちょっとゴミ捨ててくるわ」
「あ、はい」
海空の視線が俺の背中に向けられていることが、何となく分かる。その視線に、たいした意味などこめられていないということも。あいつにとって、俺は単なるサークルの先輩でしかない。世話を焼いてくれる、優しい先輩でしか。
けれど、俺にとって、あいつは真冬の弟。ただの後輩じゃなく。いなくなってしまった、真冬の。
「何、やってんだろうな……。俺」
ゴミ箱に吸い込まれていく空き缶を眺めながら、俺は一人呟く。
真冬がいなくなって。境井と俺だけになって。それでも、世界は続いていた。三人で、ずっといられると思っていたのに。真冬だけがいないのに、明日は来て、また年は暮れる。真冬、真冬。彼女のことを思うたび、俺は哀しくなる。次いで、罪悪感にとらわれる。
俺は結局、海空を傍に置いておくことで、真冬の代わりを求めているだけなのだ。もう決して会えない彼女を、亡霊を――追い求め続けている、ただそれだけなのだ。海空が純粋に俺を慕ってくれているのに、俺はそんな理由だけで。
「ああ、もう……。俺は馬鹿だ」
頭を抱えたくなる気分だ。
俺は席に戻りながら、ため息をつく。席に着くなり、海空は俺の顔を心配そうに覗き込んだ。
「先輩、具合でも悪いんですか?」
「いや……、なんでもないよ。それより桂井、お前レポート終わったのか? 確かこの間、資料がなかなか集まらないってぼやいてたような気がするけど」
俺が話をはぐらかす目的でそう振ると、海空は途端にしょげた顔になる。この分では、終わってないようだ。
「出口が見当たりません」
「資料は?」
「一応、揃えはしました」
「なら、ちょっと見せてみろ」
俺は身を乗り出して、海空に向かって手を出す。海空は躊躇する様子を見せ、首を振る。
「いいえ、良いんです。先輩に手伝ってもらってばかりで、僕、悪いです」
ああ、そういうところまで。
そういうところまで、真冬と同じなんだな。
『良いよ、君に手伝ってもらってばかりで、私、悪いもん』
「そんなことない。いいから見せてみろよ」
「うう……」
うめきつつ、それでもよっぽど困っていたのだろう、海空は鞄の中から資料のコピーを取り出した。
「あのですね。これと、これをどうにか組み合わせて、結論まで持っていきたいんです」
そう言いながら、海空は資料を一つずつ指差す。細い、白い指。
「そうか。なら――」
俺は文章のつなぎ方を提案しながら、海空の指から目を離せずにいた。その指が動くたびに、胸の奥が苦しくなる。――だめだ、こいつは海空で、真冬じゃない。だから、……もうこれ以上、重ねては。
「先輩、やっぱり顔色悪いです。もう今日は、帰った方が良いんじゃないですか」
「違うんだ、これは心因性のものだから、気にしなくていい」
「…………」
それでも、海空は尚心配そうに俺を見つめる。止めてくれ、と俺は叫びたくなる。真冬と同じ目で、俺を見ないでくれ。
けれど、と俺の中で、別の俺が言う。俺が、海空をサークルに誘ったのだ。俺が、海空を俺の傍へ引き留めているのだ。俺が――。
「桂井、……やっぱ俺、帰るわ」
「そうした方が良いです」
真剣な表情で、海空は肯く。
「僕も、ついていきましょう」
「え」
当然のように、海空は唇を尖らせる。
「だって、そんな重病人みたいな顔色の先輩を、放っておけるわけないじゃないですか」
「いや、良い。一人で帰れる」
「先輩が何て言おうと、僕はついて行きますよ。心配ですからね」
「…………」
こうなると、もう何を言おうが無駄だ。それを俺は、この半年以上の付き合いで、学習している。……独りになって頭を冷やそうと思ったのに。
「先輩の家に行くの、初めてです。楽しみです」
無邪気に、海空は言う。こいつ、ただ単に暇潰ししたいだけなんじゃないのか。
だが、嬉しそうな海空を見ると、それ以上何かを言う気も失せた。そういえば、俺は真冬に対しても、甘いところがあった。――引きずっている。
「それじゃあ先輩、早速行きましょうか」
そう言って、海空は自然に、俺の手を取る。
「……おい桂井、恥ずかしい」
俺の言葉もむなしく、手をつないだまま俺と海空は大学を出た。
そして、その瞳。
髪の茶色をもっと濃くしたような色をしている。光点を星のように散りばめた――その中に美しい銀河でもあるかのように――、その大きな瞳を伏せると、光が揺らぎ、水でもたたえているような深みが見え隠れする。それを縁取るのが、長い睫毛。ひょっとすると真冬のそれよりも長いかもしれない。
「先輩? 僕の顔なんかじっと見ても、何もありませんよ」
「ああ、うん。悪い」
俺は決まり悪く、もう空になった缶を取り上げ、立ち上がった。
「ちょっとゴミ捨ててくるわ」
「あ、はい」
海空の視線が俺の背中に向けられていることが、何となく分かる。その視線に、たいした意味などこめられていないということも。あいつにとって、俺は単なるサークルの先輩でしかない。世話を焼いてくれる、優しい先輩でしか。
けれど、俺にとって、あいつは真冬の弟。ただの後輩じゃなく。いなくなってしまった、真冬の。
「何、やってんだろうな……。俺」
ゴミ箱に吸い込まれていく空き缶を眺めながら、俺は一人呟く。
真冬がいなくなって。境井と俺だけになって。それでも、世界は続いていた。三人で、ずっといられると思っていたのに。真冬だけがいないのに、明日は来て、また年は暮れる。真冬、真冬。彼女のことを思うたび、俺は哀しくなる。次いで、罪悪感にとらわれる。
俺は結局、海空を傍に置いておくことで、真冬の代わりを求めているだけなのだ。もう決して会えない彼女を、亡霊を――追い求め続けている、ただそれだけなのだ。海空が純粋に俺を慕ってくれているのに、俺はそんな理由だけで。
「ああ、もう……。俺は馬鹿だ」
頭を抱えたくなる気分だ。
俺は席に戻りながら、ため息をつく。席に着くなり、海空は俺の顔を心配そうに覗き込んだ。
「先輩、具合でも悪いんですか?」
「いや……、なんでもないよ。それより桂井、お前レポート終わったのか? 確かこの間、資料がなかなか集まらないってぼやいてたような気がするけど」
俺が話をはぐらかす目的でそう振ると、海空は途端にしょげた顔になる。この分では、終わってないようだ。
「出口が見当たりません」
「資料は?」
「一応、揃えはしました」
「なら、ちょっと見せてみろ」
俺は身を乗り出して、海空に向かって手を出す。海空は躊躇する様子を見せ、首を振る。
「いいえ、良いんです。先輩に手伝ってもらってばかりで、僕、悪いです」
ああ、そういうところまで。
そういうところまで、真冬と同じなんだな。
『良いよ、君に手伝ってもらってばかりで、私、悪いもん』
「そんなことない。いいから見せてみろよ」
「うう……」
うめきつつ、それでもよっぽど困っていたのだろう、海空は鞄の中から資料のコピーを取り出した。
「あのですね。これと、これをどうにか組み合わせて、結論まで持っていきたいんです」
そう言いながら、海空は資料を一つずつ指差す。細い、白い指。
「そうか。なら――」
俺は文章のつなぎ方を提案しながら、海空の指から目を離せずにいた。その指が動くたびに、胸の奥が苦しくなる。――だめだ、こいつは海空で、真冬じゃない。だから、……もうこれ以上、重ねては。
「先輩、やっぱり顔色悪いです。もう今日は、帰った方が良いんじゃないですか」
「違うんだ、これは心因性のものだから、気にしなくていい」
「…………」
それでも、海空は尚心配そうに俺を見つめる。止めてくれ、と俺は叫びたくなる。真冬と同じ目で、俺を見ないでくれ。
けれど、と俺の中で、別の俺が言う。俺が、海空をサークルに誘ったのだ。俺が、海空を俺の傍へ引き留めているのだ。俺が――。
「桂井、……やっぱ俺、帰るわ」
「そうした方が良いです」
真剣な表情で、海空は肯く。
「僕も、ついていきましょう」
「え」
当然のように、海空は唇を尖らせる。
「だって、そんな重病人みたいな顔色の先輩を、放っておけるわけないじゃないですか」
「いや、良い。一人で帰れる」
「先輩が何て言おうと、僕はついて行きますよ。心配ですからね」
「…………」
こうなると、もう何を言おうが無駄だ。それを俺は、この半年以上の付き合いで、学習している。……独りになって頭を冷やそうと思ったのに。
「先輩の家に行くの、初めてです。楽しみです」
無邪気に、海空は言う。こいつ、ただ単に暇潰ししたいだけなんじゃないのか。
だが、嬉しそうな海空を見ると、それ以上何かを言う気も失せた。そういえば、俺は真冬に対しても、甘いところがあった。――引きずっている。
「それじゃあ先輩、早速行きましょうか」
そう言って、海空は自然に、俺の手を取る。
「……おい桂井、恥ずかしい」
俺の言葉もむなしく、手をつないだまま俺と海空は大学を出た。