「先輩?」
 後輩に呼ばれて、俺ははっとする。
「どうかしましたか?」
「いや……、なんでもないよ、桂井」
 桂井海空。彼は、俺や真冬と同じ大学に進学した。入学式の朝、所属するサークルの勧誘の手伝いをするために学校に赴いた俺は、彼を門の前で見かけた。
――真冬。
 一瞬、そう声をかけそうになった。それほどまでに、成長した彼は真冬と瓜二つだった。男の癖に少し長い髪の毛や、純粋さを物語るようなその大きな瞳を見ると、どうしても真冬を思い出してしまう。……でも、こいつは違うんだ。
「ちょっと、そこの君」
 俺は、まるで今からナンパでもするような言い方で、彼に声をかけた。我ながら怪しいが、手に持ったサークルのビラが、その怪しさを払拭してくれるだろう。
「はい?」
 海空は、怪訝そうに振り向き、俺を見た。真冬と同じ目で。
「俺、こういうサークルの者なんだけど……、入る気ない?」
 ほとんど押し売りのようにビラを押し付けて、俺はにこにこと彼を見下ろす。海空はきょとんとビラに目を落とし、それから安心したように微笑んだ。――似すぎている。真冬そのものと言っても良いほどに彼女に良く似たその微笑に、俺は目を疑い、そして鼓動が早まるのを感じた。
 海空はしばらくビラと俺の顔を交互に見比べていたが、やがて言った。
「あの……、どこかでお会いしましたっけ」
「…………」
 やはり、覚えていない、か。微かに失望し、多大に安心した俺は、首を振った。真冬のことなど、もう話題にしたくなかった。俺の心の中で、いつまでも、そっとしておきたかった。他の人間にとっての真冬の話を聞くたびに感じる心の痛みを、もう感じたくなかったから。
「いや、初対面だよ」
「そうですか。変なこと言ってごめんなさい」
 海空はぺこりと頭を下げた。そして、もう一度俺を見て、彼はにっこりと笑った。
「じゃあ僕、このサークル、入ります」
 そうして彼は、実質的には活動などないに等しい我らがサークルの一員となった。
「先輩、今日は何します?」
 夏休みも終わり、学園祭が近づいてくる、秋の初め。俺と海空は退屈な空気の中で、向かい合って座り、缶ジュースを飲んでいた。
 俺たちの所属するサークルは、『フリーーーーダム』という妙ちくりんな名前で、とりあえず何をするでもなく、交友関係を広げることが唯一の目的といってもいい、そういうサークルである。俺は、暇つぶしくらいにはなるかと思って入ったのだが、海空はどういう理由で入る気になったのだろうか。
 今俺たちは、暇をもてあましていた。『フリーーーーダム』は、学園祭で何やら出し物を予定しているらしいが、それに関して何の通達も来ない限り、俺たちの暇は潰れない。あれから――つまり、海空がサークルに入って以来、俺が何かに付けて海空の面倒を見たおかげで、海空は俺と行動を共にすることが多かった。元々それほど人付き合いが上手ではない俺に、そこまで懐いてくる後輩なんて珍しかったからか、同学年の友人にはからかわれることもあった。ただ一人、親友の境井さかいを除いては。
 境井と俺と、真冬の三人は、高校に入ってからずっと同じクラスだった。男子二人に女子一人、という微妙なメンバーだったが、境井は俺と真冬の関係に嫉妬したり、邪魔をしようなどと、考えるような奴ではなかった。そもそも境井は俺と違って人当たりの良い好青年で、真冬一人に固執するほど異性に飢えていたわけではない。まあ簡単に言ってしまえば、モテる奴だったのだ。
 そんな境井と俺、そして真冬は、同じ大学に入り、昔と変わらずのんびりとした関係を築いていた。それは、真冬がいなくなってからも、変わらない。境井は、真冬を失って自失した俺を気遣って方々へ引っ張りまわしてくれ、元気付けてくれた。一時など、一人暮らしの俺の家へ押しかけて、家事全般を請け負ってくれたことさえある。そういう気の回る奴だから、俺がサークル室に連れてきた海空を見て、俺の気持ちに気がついたのだろう。どれ程、俺と海空が仲良くなろうとも、からかうなんてことはしなかった。むしろ、気遣って席を外すなんてことも、珍しくはなかった。
 今も、俺の隣に座っていた境井は、開いていた携帯を閉じ、立ち上がった。
「境井、お前、そんな気ぃ使わなくて良いぞ。俺は別に――」
「そんなんじゃないよ。お前に使う気なんて、もったいなくて持ち合わせてない」
 笑いながら境井は、それじゃあ、と手を振って、いなくなってしまった。俺と海空はそれを見送って、また暇を潰す計略に思いを馳せる。
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