手首

「手首。手首。手首」
 駅のホームに、ぶつぶつと呟きながらうろついている男がいた。彼は自分の左手首の辺りを押さえ、床を凝視しながら、何度も同じ場所を回っている。
 僕はベンチに座り、電車を待っていた。男は、僕がここに座る前からああしていたようだから……。かれこれ五分は、歩き続けているわけだ。
「手首、手首。どなたか、私の手首を知りませんか。私の手首。ああ、何処へ行ってしまったのでしょう」
 男は弱弱しい声で、道行く人々にそう呼びかけている。だが、勿論のこと、誰一人として相手にしようとはしない。
「手首、手首」
 見たところ、彼の左手首はきちんと彼の右手の中に収まっているようだし、その付近にも、傷一つ見あたらない。失くした体の一部分が疼くという話は聞いたことがあるが、確かにそこに存在している自分の手首を失くしたと思い込む、というのは聞いたことがないな。
 僕はぼーっと、男の様子を見守る。
「ああ、手首。私の手首」
 僕は男の挙動に注意してはいたが、その男にだけ目を向けていたわけではない。もう一人、駅のホームには怪しい感じの少年がいた。今は大抵の学校の下校時刻と重なるから、制服を着た高校生がいてもなんらおかしいことはないのだが――その少年の様子は、どこかおかしかった。どことなくそわそわしていて、しかし僕に負けず劣らずぼーっとしていることもある。……どうにも、様子がおかしい。
「手首」
 男は相も変わらず同じところをぐるぐる回り続けているし、少年の顔色はいつまでも晴れない。何か、ひどく思いつめているようである。まさかとは思うが、飛び込み自殺を図ろうと思っているのではあるまいな。……そんなことをされたら、待ち合わせに遅れてしまう。切実に止めて欲しい。
 しかし僕は、その少年に話しかけ、自殺など止めろ、と言い出す元気も勇気も持ち合わせていなかった。そもそも、ただ単に落ち込んでいるだけだったら、恥ずかしいではないか。
「て……」
 男がもう何度目になるかしれないフレーズを繰り返そうとしたとき、ホームに、電車が滑り込んできた。僕は立ち上がろうとしたが、またすぐに腰をおろした。――少年が、飛び込んだらしい。
「きゃああっ!」
 あちこちから悲鳴が上がり、電車は中途半端な位置で停車する。乗客用のドアは開かずに、車掌だけが慌てて降りていく。
 どうやらなかなか思い切りの良い飛び込み方だったらしく、僕の座っているところまで、赤い飛沫が飛び散ってきた。思わず口を押さえ、気分の悪さをこらえようとしている僕の、その足元に、何かがごろん、と転がってきた。
――――うぅえ。
 それは、真っ赤に血で染まった、手首だった。左か右か? そんなことは分からない。気持ち悪くて、それ以上見ていられなかったから。
 けれど、その手首から目をそらした僕の目の前に、左手首を押さえたあの男が立っていた。目を爛々と輝かせ、唇は三日月形に笑んでいる。そして、転がっている手首を見ていた。
「あった。手首、私の手首!」
 呟いて、それはもう嬉々とした表情で、男は抑えていた右手を、左手首から離した――途端に、それはごろりと転がり落ちる。傷など見当たらなかったはずなのに。どうして、という疑問よりも先に、おぞましさが先に立った。男は落ちた自分の手首を顧みることなく、先ほど飛び込んだ少年の手首を拾い上げた。そして、自らの左手首に、嵌めた。
「手首。私の手首! やっと、やっと手に入れた!」
 男はその新しい左手首を、再び右手で押さえ、あふれ出ている血を拭うこともせず、そのままどこかへ立ち去った。満面の笑みと、今や誰のものかも分からない、一つの手首だけを残して――。
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