既存世界からの脱却

 ここを出て行くつもりかい。

 そう言いながら煙が充満した部屋に新たな煙を吐き出し、彼は言った。彼というのは、土中深く穴を掘ってそこで暮らす、盲目の喫煙者、土竜もぐらその人だ。

 出て行く、と言えばそうですね、と私は言う。しかし、出て行くのかそれともまた別の何処かへ入っていくのかは、やってみなくては分からないでしょう。

 ふむ、と土竜は鼻から煙を出して見せる。ふむ、して、目的というモノはあるのかね。蛹の奴も、何かそれについて言ってやしなかったか……。

 そうですね、と私は視線を泳がせる。彼は――蛹は、何やら言おうとしていた……ようですね。

 酸性雨の脅威について披露する気にはなれなかった。土竜はまた、ふうむ、と言いながら煙を吐き出した。輪をこしらえるのが上手だった。

 しかし、ここを出て行く……もしくは何処かへ入るにしてもだ、やはりそれには目的と言うモノが必要だ、そうではないかね?

 まるで独り言のような言い方で、しかし目だけはしっかりと鼻眼鏡の向こうから私を見つめ、土竜は言う。
 目的、ですか。私はなおざりな調子にならないように注意しながら続ける。しかし目的など、あってないようなモノではないですか。もっと言わせて貰うなら、ああいうモノは――……

 だめだだめだ、そこのところはしっかりしておかなくては、と土竜は言う。

 目的と言うのは、時に手段や意思よりも優先されるモノだ……目的のためには手段を選ばない、というのは当たり前の話なのだよ。目的も無しに生きるなどとは言語道断、全くそれほど一生を棒に振る生き方は有り得んな。

 しかし、と私は消えそうな声で反論する。しかし、生きるために生きる、というシンプルな生き方というのも、この世界には有り得るのでは――……
 土竜は眼光鋭く私を見、ふんと鼻息を荒くした。

 君は、そのようなことを本当に信じているのかい。それは全く持って――……げほ、ごほ、と土竜は咳き込んだ。それはだね、全く持って、君のような賢明な人間には似つかわしくない……本当に愚かしい……考え方なの、だよ……げほ、ごほ。

 はあ、と私は肯いてみせる。
 良いか、と土竜は言う。この世界に、目的なく存在している者など居ないのだ……そうなのだよ。
 でもしかし、と私が言いかけると、土竜は煙を私に吹きかけ、それを阻んだ。

 でももしかしもない……君はもうちっと頭が良いものと思っていたがね……げほ、ごほ。良いか、この世界では誰も、目的というものを持たなくてはいけない。私も目的というものをきちんと見据えて、ここにこうして存在しているのだよ。

 ほう、と私は相槌を打つ。ほう、それではひとつ、貴方の存在理由――……その目的とやらをお教え願えませんか。私にも、参考になるかもしれません。
 土竜は待っていたと言わんばかりにほくそ笑み、煙の輪を二、三個と連続して出した。
 私の目的……そう、よくぞ聞いてくれたね、と土竜は今までとは違った声色で言う。

 私の目的はだね、何かを見るということなのだよ。知ってのとおり、私はめくらだ、盲目だ。今こうして君を見ているのも、ただそちらの、君のいる方角に、目を向けているのに過ぎない――……しかしいつか、私は何かを見て見たいのだよ……げほ、ごほ。

 そうですか……と、私はため息混じりに呟く。そうですか……どうやらこれ以上話しても、お互いにとってあまり良い結果をもたらしそうにありませんね。そろそろお暇いたします。
 土竜はうんともすんとも言わず、ただふん、と煙を吐き出した。そして私は彼の家――土の中から、顔を出す。

 私の心は決まっていた。
 決して叶うはずのない目的を、持たなくても良い世界へ。
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